【産経抄】歴史の暗部から生まれた「怖い絵」 10月8日
16世紀のイングランドを治めたヘンリー8世は、生涯に6人の妻を持った。1人目を離縁し、2人目に無実の罪を着せて斬首したのは、世継ぎをなさなかったことが背景にあるという。横暴苛烈を極めた人だった。
▼4人目の妻をめぐっても騒動がある。宮廷画家のホルバインに描かせた肖像画を頼りに、ドイツから妻を迎えた王は絵と実物の違いに激怒した。縁談を進めた側近はまもなく処刑されている。画家が罪を免れたのは、他に腕の立つ者が宮廷にいなかったためらしい。
▼「もし代わりの画家があらわれたら?」。ドイツ文学者の中野京子さんは著書『怖い絵』(角川文庫)の中で問い掛ける。ホルバインの『ヘンリー八世像』は一見、権勢の証しをとどめた全身像にすぎないが、背景を踏まえて見直すと、作者の震えが伝わってくる。
▼多くの絵には、描かれた当時の世相や注文主の思惑、「その通りには描かない芸術家の魂も隠されている」。東京・上野の森美術館で始まった『怖い絵』展を特別監修する中野さんの解説である。背景を知ることで思いもよらぬ恐怖やメッセージが見えてくる、と。
▼中でも日本初公開の「レディ・ジェーン・グレイの処刑」は秀抜で鑑賞をお勧めする。政争と宗教対立の中に生きたジェーンは在位9日で女王の座を追われている。処刑を命じたメアリー1世はヘンリー8世の娘、ジェーンの母方の祖母はヘンリー8世の妹である。
▼シェークスピアの歴史劇『ヘンリー八世』に王のせりふがある。「忠誠には名誉こそ最上の褒美と言うべきだろう、不忠には汚名が最高の懲罰であるように」(小田島雄志訳)。名誉と汚名は紙の裏表という時代だった。偉大な芸術は往々にして歴史の暗部から生まれるのだろう。