連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識
性欲とは性的行為を求める人間の本能であり、交接とは自分の遺伝子を次の時代に繋ぐための行為である。
性欲と種の保存の欲求は、時代とともに変容するものではない。
江戸時代、男子の精液は「腎水」と言い、精力旺盛な男子は腎臓に精液が漲っていると解釈された。
「腎張(じんばり)」とは好色で濡れ事に目がないという意である。
(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
1590年(天正18)の小田原攻めの際、徳川家康が築いた陣所の跡が小田原の市街地に、ひっそりと残っているのをご存じだろうか。
小田原駅の東口から城東車庫行のバス(1時間に2本くらい)に乗って、今井というバス停で降りる。バス停のすぐ横にある看板の所から小道に入るとあっさり到着。東照宮の小さな社があって、その前に「徳川家康陣地跡の碑」と説明板が立っている。
(歴史ライター:西股 総生)
(前編からつづく)突如出現した城に北条側が肝を潰した、という話がガセだしても、秀吉が石垣山城を80日間で、どうにか城として使える状態まで持っていったのは事実だ。大勢の人足や職人を動員しての突貫工事であったろう。
ただ、この驚くべき急速建造が実現したのにも、ちゃんと理由がある。秘密は、石垣山城の立地に隠されている。石垣山城は、箱根の山から海に向かって伸びる尾根の一角にあって、城の北面は早川に臨む崖となっている。
(歴史ライター:西股 総生)
豊臣秀吉が小田原城を攻めるために築いた石垣山城は、またの名を一夜城とも言い、関東地方で最初に築かれた本格的な近世城郭として知られている。高石垣や天守を備えた城ということだ。
通説では、この城を秀吉は80日間の突貫工事で完成させると同時に、まわりの木を一気に切り倒した。小田原城内からこの様子を見た北条方は、一夜にして立派な城ができあがったのかと肝をつぶし、戦意を失ってしまった……というように語られてきた。そして、これまで多くの歴史家が、石垣山城は秀吉の力を敵に見せつけるための城だった、と評価してきた。
(歴史ライター:西股 総生)
(前編からつづく)岱崎出丸をひとわたり歩いたら、国道1号線を横切って西ノ丸へと向かおう。西ノ丸は、1590年3月29日の攻略戦で徳川勢が担当していた場所だ。
西ノ丸の外側をめぐる遊歩道を上ってゆくと、巨大な空堀が口を開けて待っている。ここも出丸と同じ障子堀だ。いや、出丸の堀より幅が広い分、障子のパターンも複雑である。西ノ丸の障子堀はよく「ベルギーワッフルみたい」といわれる。でも、よーく見てほしい。
大相撲秋場所は、大関貴景勝が東前頭15枚目の熱海富士との優勝決定戦を制し、4回目の優勝を決めた。照ノ富士がけがで休場となり横綱不在の場所となる中、大関の意地を見せた格好だ。今回は、日本の国技とされる相撲はどのように始まり、現在の形になっていったのか。その歴史を解説する。
(長山 聡:大相撲ジャーナル編集長)
四つに組んでの力比べは、人間の本能といってもよく、古来世界各国で相撲によく似たスポーツが行われていた。
(町田 明広:歴史学者)
今から160年前、文久3年(1863)7月2日、鹿児島湾で薩英戦争が勃発した。そもそも、なぜ薩摩藩とイギリスは戦争に至ったのだろうか。その導火線となったのは、前年の文久2年(1862)8月21日に起こった生麦事件であった。
生麦事件とは、江戸から京都に向かう薩摩藩主の実父であり、かつ最高権力者である島津久光の行列に騎馬で遭遇した英国商人リチャードソンを奈良原喜左衛門らが無礼打ちした事件である。リチャードソンは肩から腹へ斬り下げられ、臓腑が出るほどの深手を負い、200メートルほど戻り落馬した。そこに、追いかけてきた海江田信義によって止めを刺された。
NHK大河ドラマ『どうする家康』で、新しい歴史解釈を取り入れながらの演出が話題になっている。8月には追加キャストが発表され、2代将軍の徳川秀忠は、森崎ウィンが演じることが明らかになった。家康は後継者となる秀忠と、どんな絡みをみせるのか。ドラマに先立って、家康と秀忠との関係性について『なにかと人間くさい徳川将軍』の著者で、偉人研究家の真山知幸氏が解説する。(JBpress編集部)
次回の『どうする家康』は第35回「欲望の怪物」で、徳川家康がついに上洛して、豊臣秀吉に恭順の意を示すことになる。最終回は第47回か第48回のいずれかになりそうなので、残すところ10回強だ。そう考えると実に寂しい限りである
(町田 明広:歴史学者)
文久2年(1862)1月、坂本龍馬は武市半平太の書簡を携え、長州藩の萩に久坂玄瑞を訪ねた。久坂は、「草莽崛起論」を開陳して、諸侯も公家も頼むに足らず、草莽の志士が糾合さえすれば天下を動かせると力説した。加えて、島津久光の率兵上京の目的が義挙であると説明し、薩摩・長州・土佐3藩が同盟関係を構築して、朝廷守護に尽力することを提案した。
龍馬は、久坂の提案に大いに賛同した。久坂の言説に触れたことにより、武市が進める「藩」に依拠した尊王攘夷運動に疑問を感じた。龍馬は久坂に感化され、尊王志士としての骨格が形成されたと言っても過言ではなかろう。
負けないはずの日本の大東亜戦争(1941=昭和16=年12月~45年8月)の戦略を破壊したのが、ともに米ハーバード大学留学組の永野修身軍令部総長と、山本五十六連合艦隊司令長官だ。
山本は41年1月7日付、及川古志郎海相宛の書簡「戦備に関する意見」で、「日米戦争に於て我の第一に遂行せざるべからざる要項は開戦劈頭敵主力艦隊を猛撃撃破して米国海軍及米国民をして救う可からざる程度に其の志気を沮喪せしむること是なり…」と述べている。全くの見当違いの見解だ。
(町田 明広:歴史学者)
坂本龍馬(天保6年11月15日〈1836年1月3日〉~ 慶応3年11月15日〈1867年12月10日〉)と言えば、時代の古今を問わず、国民的ヒーローであることは論をまたないであろう。
龍馬の生涯は、わずか32年足らずに過ぎないが、その人生は波瀾万丈に富んでいた。まさに、疾風怒涛の人生を駆け足で走り抜いたのだ。多くの日本人が、その人生に何らかの仮託をするなど、龍馬に思いを馳せている。
国民的ヒーローとなった龍馬は、歴史家がなかなか手を付けにくい、アンタッチャブルな存在となっていた。しかし、少しずつ研究の蓄積ができ始め、龍馬伝説にメスが入ったり、新たな龍馬の事績が発掘されていることも、周知のことであろう。筆者も以前、JBpressでは「坂本龍馬は薩摩藩士か?」を執筆したが、龍馬には意外にも謎の部分が少なくない。
「生きるか死ぬか」の家康の「伊賀越え」は、1582(天正10)年6月2日未明の「本能寺の変」に対する戦国の三英傑である織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の「危機管理」の違いを知ることで、理解がより深まるだろう。
本能寺の変を研究しているのは歴史学者だけではない。天文学者や気象学者らも強い興味を示し、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスが本部宛ての報告書に記した「本能寺の変の少し前に凶事を暗示するかのような大彗星が出現し、しかも安土城から遠くない場所に落下した」というのは事実で、「本能寺の変の前日は日食だったが、雨で観ることができなかった」ということまで明らかにしている。
未明とは午前3時から日の出前までをいうが、当日は新月で闇夜同然。その中を、松明を灯した明智光秀の軍勢が進軍していたが、老坂(おいのさか)を上って右へ行くはずだった進路を変え、京へ出る左の坂道を下り、桂川を渡って本能寺へと向かったのである。
(町田 明広:歴史学者)
寛永16年(1639)7月、3代将軍・徳川家光によって、「寛永鎖国令」が発布され、これ以降はポルトガル船の渡航を厳禁した。そして、万が一再来航した場合には、船は破壊し乗組員は処刑することを命じた。
承応3年(1654)5月、4代将軍・徳川家綱によって、「承応鎖国令」が発令され、「寛永鎖国令」が修正された。南蛮船を追い返すことを要求しているものの、攻撃されない場合は、こちらからも攻撃しないこと、追跡は不要であることを命じた。
(町田 明広:歴史学者)
◉吉田松陰の対外思想ー長州藩を左右した世界観の彷徨①
◉吉田松陰の対外思想ー長州藩を左右した世界観の彷徨②
◉吉田松陰の対外思想ー長州藩を左右した世界観の彷徨③
松陰は、下田渡海事件の前後に即時攘夷から未来攘夷に転換した。今回は最初に、その後の松陰の対外思想の変転について、積極的開国論、未来攘夷を声高に主張した段階から見ていこう。
下田渡海事件後、萩に戻った松陰は、安政の大獄後に長州藩の藩是(藩の基本方針)となった、「航海遠略策」(長州藩士長井雅楽が提唱した、通商条約の容認を前提に日本の対外進出を推進する政策論)にもつながる意見を述べている。
フランス各地で発生していた暴動は3日、鎮まる様子を見せた。パリ郊外で少年が交通検問中の警官に射殺されたことをきっかけに起きた暴力的な抗議行動は、5日間にわたって続いていた。
2日夜には暴力行為は縮小し、放火された車は297台で3日前の1900台から減少。損壊や炎上した建物も34棟と、3日前の500棟以上から大きく減った。
逮捕者も、前夜の700人以上から150人超に減った。
しかし当局は3日、正常に戻ったと早合点してはならないと慎重な姿勢を示した。
(町田 明広:歴史学者)
◉吉田松陰の対外思想ー長州藩を左右した世界観の彷徨①
◉吉田松陰の対外思想ー長州藩を左右した世界観の彷徨②
吉田松陰は、ペリー再来航時(1854)に「墨夷膺懲」(夷狄であるアメリカを征伐してこらしめること)を志し、ペリーを刺殺することを計画した。つまり、即時攘夷を実行することを決心していたのだ。
にもかかわらず、松陰はそれを思い止まり、即時攘夷から未来攘夷に転換し、下田渡海事件を起こした。転換した理由として、通商は回避したものの、日米和親条約が締結された事実があった。松陰がペリーに危害を加えることは、国際問題になり兼ねない行為であることを、自覚していた可能性は十分にあろう。
(歴史家:乃至政彦)
果たして戦国大名は武力を持って「上洛」したのか――。戦国時代における重要なテーマについて『戦国大変 決断を迫られた武将たち』 を発売し注目を集める乃至政彦氏が、今川義元らを中心とした戦国大名の軍事上洛の意思について考察する。
最近考えていることのひとつは、戦国大名の「率兵上洛(軍事上洛)」である。
「率兵上洛」とは、軍勢を動員して、武力で京都に乗り出すことである(上杉謙信は2度ばかり上洛しているが、武力で入京しておらず、平和裡の上洛である)。
(歴史ライター:西股 総生)
1575年(天正3)の5月に、織田信長&徳川家康の連合軍が武田勝頼を破った長篠合戦。大河ドラマ『どうする家康』がこの合戦に差しかかったタイミングで、各種ウェブサイトも関連記事でにぎわっていますが、記事によって「長篠合戦」「設楽原(したらがはら)合戦」と呼称が一定しません。
歴史上の合戦や会戦は、起きた場所の地名を取って呼ぶのが一般的です。たとえば、「石橋山合戦」「関ヶ原合戦」「鳥羽・伏見の戦い」、世界史に目を広げてみても「赤壁の戦い」「ワーテルロー会戦」「クルスク戦車戦」といった具合です。
(町田 明広:歴史学者)
吉田松陰の対外思想は、松陰刑死後も長州藩の方向性に多大な影響を与え続けた。と言うのも、文久期(1861~1863)に藩政の中枢を牛耳って即時攘夷を実践したのは、松下村塾で直接松陰から教えを受けた塾生が中心であったからだ。
その筆頭と言えるのが、久坂玄瑞であろう。久坂は高杉晋作ともに松門の双璧と言われ、そこに吉田稔麿、入江九一を加えて四天王と称された。また、久坂らが兄のように慕った桂小五郎(木戸孝允)は、嘉永2年(1849)に藩校明倫館で山鹿流兵学教授であった松陰から兵学を学んでいる。桂は松下村塾の門下生ではなかったが、終生松陰のみを師として仰いだのだ。
徳川家康ほど「辛抱」「我慢」「忍従」を貫いた戦国大名はいない。〝ひたすら耐えた人〟。それが家康である。そうした性格は、6歳から19歳までの「人質暮らし」のなかで培われたが、家康も人の子、我慢にも限度があったはず。
そう思えるのだが、家康が38歳だった1579(天正7)年に起きた「妻子殺害事件」にはそれが感じられないのである。
同事件は、「嫁姑問題」に端を発し、嫡男の嫁が姑と夫を実家の父、織田信長に書面で告発したことで大事(おおごと)に発展し、信長から求められるままに家康が「妻と息子を死なせた事件」だが、謎また謎の様相を呈している。
昨年、山県有朋の評伝が話題になった著者が5人の近代日本の政治家を取り扱った評伝集である。いずれも非常に興味深いものであるが、ここでは原敬について取り上げることにしよう。
原は岩手県盛岡市に生まれた。薩長藩閥政府の時代、東北諸藩の出身者は「白河以北一山百文」といわれた中に育った。16歳で上京以来、原はどんな困難をも耐え忍ぼうと決心し、その決心を守ってきたと後年言った。また、親、兄弟、親戚、友人なども頼みにせず、全ては自分一個の勉強次第であるとして生きたという。
司法省法学校などに学び新聞社に入るなどしたが、長州の井上馨との関係ができ外務省に入る。次いで、井上農相の下、農商務省参事官となる。次の農相が陸奥宗光で、薩長藩閥政府の中で昇進しながら非薩長閥出身でなかった才能ある二人は、お互いに極めて高く評価し合い緊密な関係となる。
(町田 明広:歴史学者)
幕末維新をいつからいつまでとするのかは、難しい問題である。仮に、嘉永6年(1853)のペリー来航から明治4年(1871)の廃藩置県とした場合、その期間を通じて活躍した人物を挙げることは至難の業であろう。明治期を除いて、ペリー来航から鳥羽伏見の戦いに限定しても、
そのような中で、ほぼその全期間を通じてキーマンであった人物の一人は、松平春嶽(文政11年9月2日(1828年10月10日)~明治23年(1890年)6月2日)ではなかろうか。今回は、その春嶽にフォーカスし、彼が成し遂げた事績を取り上げるとともに、それを可能にした徳川一門としての華麗なる血統の秘密に迫ってみたい。
(町田 明広:歴史学者)
嘉永6年(1853)6月3日、ペリー艦隊は浦賀に入港した。今年でちょうど、170年である。幕末がいつから始まったかについては、諸説あるものの、幕末の動乱の幕が切って落とされたのは、ペリー来航を起点としても異論はなかろう。
ペリー来航によって、教科書的に言えば、日本は砲艦外交にさらされて、なす術もなくその武力の前に沈黙し、日米和親条約を結ばざるを得なかった。これによって、日本は開国したとされている。果たして、その時点で日本は本当に開国したのだろうか。そもそも、アメリカはなぜ日本の開国を欲していたのだろうか。
今回は3回にわたって、こうした疑問に答えながら、170年前のペリー来航の意義、そして日米和親条約によって、本当に日本は開国したのかを、改めて考えてみたい。