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水戸学の三傑・幽谷、正志斎、東湖が大成した後期水戸学が日本人に遺したもの [3)日本の歴史]

水戸学の三傑・幽谷、正志斎、東湖が大成した後期水戸学が日本人に遺したもの

幕末維新史探訪2023(12)幕末に生きた武士に最も影響を与えた後期水戸学③
2023.4.26(水)町田 明広
弘道館正庁 写真/フォトライブラリー

●幕末に生きた武士に最も影響を与えた後期水戸学①
●幕末に生きた武士に最も影響を与えた後期水戸学②

(町田 明広:歴史学者)

藤田幽谷の『正名論』

 今回は、「水戸学の三傑」について、その代表的著作を中心に据えて紹介していこう。最初に、藤田幽谷(1774~1826)であるが、寛政3年(1791)に後期水戸学の草分けとされる『正名論』を著した。その中で、「幕府、皇室を尊(たっと)べば、すなはち諸侯、幕府を崇とび、諸侯、幕府を崇べば、すなはち卿・大夫、諸侯を敬す」と述べている。

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タグ:後期水戸学
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光秀が作った「織田家唯一の軍法」その狙いと他の大名の軍法との違いとは [3)日本の歴史]

光秀が作った「織田家唯一の軍法」その狙いと他の大名の軍法との違いとは

惟任光秀と軍制(前編)
2023.4.25(火)乃至 政彦
織田信長像

(歴史家:乃至政彦)

 惟任光秀が作った「織田家唯一の軍法」がある。今回はその狙いに迫ってみたい。

領主別編成から兵種別編成への移行

 本能寺の変を起こす月日のちょうど1年前、明智こと惟任(これとう)光秀は家中の軍法を定めた。歴史学界で「明智光秀家中軍法」(御霊神社所蔵)と呼ばれている史料である。

 細かいことを言うと、光秀はこの時期すでに明智を使わなくなっていて、惟任と名乗って久しいので、「惟任光秀家中軍法」と呼ぶべきだと思う(この時期の光秀を「明智光秀」と呼ぶのは、晩年の徳川家康を松平家康、豊臣秀吉を木下秀吉と呼ぶようなものである)。

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「酔って妻を斬殺」と報じられた第2代総理大臣・黒田清隆、驚愕の「酒癖」 [3)日本の歴史]

「酔って妻を斬殺」と報じられた第2代総理大臣・黒田清隆、驚愕の「酒癖」

古今東西、知られざる権力者たちの“酔態”(1)
2023.4.24(月)栗下 直也

酒は「人間関係の潤滑油」と言われる。確かに会社の上司や部下、取引先などと酒を酌み交わし、本音をさらけ出すことで信頼関係を深め合えることもある。だが逆に、酒が入ったときの言動によって信頼関係をぶち壊してしまうこともあるのは読者諸兄もご存じの通り。同じことは政治や外交の世界でも起きている。上手に酒を使って仕事をした政治家もいれば、酒で取り返しのつかない失態を犯した者も……。そうした古今東西の政治家の酒にまつわるエピソードを集めた『政治家の酒癖』(栗下直也著、平凡社新書)が面白い。同書の中から選りすぐりのエピソードを紹介したい(JBpress編集部)。

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「後期水戸学」の理解者、徳川斉昭は井伊直弼も憧れた幕末のスターだった? [3)日本の歴史]

「後期水戸学」の理解者、徳川斉昭は井伊直弼も憧れた幕末のスターだった?

幕末維新史探訪2023(12)幕末に生きた武士に最も影響を与えた後期水戸学②
2023.4.19(水)町田 明広
復元された水戸城大手門の前にある徳川斉昭像

●幕末に生きた武士に最も影響を与えた後期水戸学①

(町田 明広:歴史学者)

前期と後期に分かれる水戸学

 水戸学とは、第2代水戸藩主の徳川光圀が始めた『大日本史』の編纂事業が継続される中で、藩内で醸成された学問のことである。その目的は、過去の日本の歴史を朱子学的な大義名分から明らかにすることにあった。

 水戸学は、前期と後期に区分されている。18世紀初めまで、『大日本史』の本紀・列伝・論賛の編纂に取り組んだのが前期である。そして、第9代藩主の徳川斉昭の治世である18世紀末期から幕末にかけて、編纂事業は継続しつつも、政治的課題の解決にも目を向けたのが後期である。その舞台となったのが、斉昭が設置した藩校の弘道館であったのだ。

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タグ:後期水戸学
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朱子学、経世論、国学…幕末武士に多大な影響を与えた「後期水戸学」への系譜 [3)日本の歴史]

朱子学、経世論、国学…幕末武士に多大な影響を与えた「後期水戸学」への系譜

幕末維新史探訪2023(11)幕末に生きた武士に最も影響を与えた後期水戸学①
2023.4.12(水)町田 明広
偕楽園 写真/フォトライブラリー

(町田 明広:歴史学者)

後期水戸学の重要性とは

 幕末がいつから始まったのか、様々な意見が存在する。筆者は、天保期(1830~1844)から始まるものの、目に見える形としては、ペリー来航(1853)であろうと考えている。

 その天保期以前から、外国船が日本近海に出没し始めていたが、幕府は特段の対策を見出すことができなかった。また、数々の天変地異(地震・火山噴火・冷害など)による社会不安への対応もままならなかった。これらが積み重なって、幕府の武威(軍事力に裏打ちされた威光)や幕府への信頼は大きく失墜して、幕末期を迎えていたのだ。

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タグ:後期水戸学
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【日露戦史】極東の小さな島国・日本が軍事大国を打ち負かした日露戦争 白人の植民地支配に苦しむ世界各地に希望と勇気 [3)日本の歴史]


タグ:日露戦史
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『鬼平犯科帳』から紐解く、高い検挙率を誇った江戸時代の犯罪捜査の秘密 [3)日本の歴史]

『鬼平犯科帳』から紐解く、高い検挙率を誇った江戸時代の犯罪捜査の秘密

火付盗賊改と人足寄場を率いた長谷川平蔵(鬼平)はイノベーティブだった
2023.3.27(月)三田 宏
「明暦の大火」では江戸の多くが消失した(写真:アフロ)

 池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公、長谷川平蔵宣以(のぶため)は18世紀後半に放火犯や盗賊を取り締まる火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため:火盗改)の長を務めた実在の人物。この役職は2~3年で交替するのが通例だったが、平蔵は8年間も務めた。わずか50人の部隊だったが、江戸の市中を取り締まり、高い検挙率を誇ったという。平蔵はどのような捜査をしたのだろうか。

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タグ:鬼平犯科帳
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なぜ大内義隆の評価は死後に一変したのか?酷評の理由と「もしも」の可能性 [3)日本の歴史]

なぜ大内義隆の評価は死後に一変したのか?酷評の理由と「もしも」の可能性

大寧寺の変と大内義隆(後編)
2023.3.7(火)乃至 政彦
大寧寺 釈迦三尊及び十六羅漢像 写真/フォトライブラリー

(歴史家:乃至政彦)

前編の続き)

二階崩れの変、新宮党粛正の転換期

 大寧寺の変は、時代の転換期に起きた事件である。

 天文19年(1550)頃より、西国で変革の波が押し寄せていた。ひとつひとつはマクロで見ると小さな事件だが、直面した人々にとっては生死を分つ大事件であり、世界の全ても同然であっただろう。

 同年2月10日、豊後の大友義鑑(よしあき)が長男・義鎮(よししげ/のちの宗麟)の廃嫡を考えていたところ、大友館の二階で謀反に遭って三男・塩市丸と共に殺害された。いわゆる「二階崩れの変」である。

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タグ:大内義隆
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「日本無双の大名」大内義隆はなぜ、陶隆房の逆心を放置したのか [3)日本の歴史]

「日本無双の大名」大内義隆はなぜ、陶隆房の逆心を放置したのか

大寧寺の変と大内義隆(前編)
2023.2.28(火)乃至 政彦
大内義隆像

(歴史家:乃至政彦)

大内義隆最後の作戦

 天文20年(1551)──。

 周防の大内義隆はながらく雌伏の時にあったが、いよいよ壮大な作戦を始動するところにあった。

「ここまで当家の地獄を見てきた者たちだ──」

 義隆は三人の重臣の顔を思い浮かべ、「──面構えが違う」と心のうちで呟いただろう。

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タグ:大内義隆
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「どうする家康」にも登場の三河吉良氏の本拠・世田谷城に見る戦国時代の情景 [3)日本の歴史]

「どうする家康」にも登場の三河吉良氏の本拠・世田谷城に見る戦国時代の情景

東京23区に古城を訪ねる:第2回「世田谷城(世田谷区)」
2023.2.24(金)西股 総生
世田谷城の空堀 撮影/西股 総生

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

北条領国の取り残された「小さな独立国」

 東急世田谷線を上町駅で降り、静かな商店街を北に2、3分も歩くと、緑道の先に緑の公園が見えてくる。その名も世田谷城址公園。入口には、かつてここが世田谷吉良氏の居城だったことを記した説明板が立っている。

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公家かぶれではない?今川義元が桶狭間合戦で輿(こし)に乗った本当の理由 [3)日本の歴史]

公家かぶれではない?今川義元が桶狭間合戦で輿(こし)に乗った本当の理由

変わる今川義元・氏真のイメージ(後編)
2023.2.20(月)西股 総生
桶狭間古戦場公園の今川義元と織田信長の銅像 写真/フォトライブラリー

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

変わる今川義元・氏真のイメージ(前編)はこちら

義元はなぜ織田と戦うことになったのか?

 今川義元は、永禄3年(1560)に尾張の桶狭間で織田信長と戦い、敗死してしまいます。では、義元はなぜ織田と戦うことになったのでしょう? 

 この戦いについては、これまでも多くの歴史家や作家たちがさまざまに論じてきました。中には、うがった戦略論を展開している方もありますが、本当はそれほど込み入った話ではありません。

 前回説明したように、戦国時代の前半には、今川は甲斐の武田、相模の北条と三つ巴の争いを繰りひろげていました。けれども、このままではお互いに不利だということに、三者とも気づいてゆきます。

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タグ:今川義元
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『どうする家康』今川氏真はなぜ家康の妻子を処刑せず人質交換に応じたのか [3)日本の歴史]

『どうする家康』今川氏真はなぜ家康の妻子を処刑せず人質交換に応じたのか

文献で異なる石川数正の活躍ぶり、『三河物語』では氏真を「アホ」呼ばわり
2023.2.18(土)真山 知幸
静岡駅北口にある竹千代と今川義元の像

 NHK大河ドラマ『どうする家康』では、主人公の徳川家康のみならず、周辺の人物も従来のイメージとは異なる描き方がされており話題を呼んでいる。第6回放送分では、作戦が失敗に終わった前回に引き続き、今川氏の支配する駿府に残した妻子を奪還すべく、家康と本多正信や石川数正らの家臣が活躍する。第6回の見所ポイントや素朴な疑問について、『なにかと人間くさい徳川将軍』の著者で偉人研究家の真山知幸氏が解説する。なお、言及するのはまだ家康が「元康」と名乗っていた頃だが、この記事では「家康」で統一する。(JBpress編集部)

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男性版・大奥を江戸城に設けた将軍、その治世の賛否 [3)日本の歴史]

男性版・大奥を江戸城に設けた将軍、その治世の賛否

「色を以て幸され」、綱吉に寵愛された大奥・女中と小姓たち
2023.2.15(水)市川 蛇蔵

連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

大奥で語り継がれる女同士の戦いには、世継ぎである「胤」の存続という共通の目的がその背景にある

 江戸幕府3代将軍・徳川家光の4男として誕生した徳川綱吉。

 綱吉は、次期将軍となる兄・家綱を支えるために、父・家光のすすめで儒学、朱子学を学び、これが後に5代将軍・綱吉が目指した、武力に頼らず徳を重んずる文治政治の礎となる。

 将軍批判が御法度だった江戸時代だが、綱吉の醜聞は当時から世間に広く知られていた。

 父・家光が30歳を過ぎても男色に血道を上げていた一方、綱吉は男女ともに交わる二刀流であった。

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タグ:大奥
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新発見されたシーボルト書簡、その全容と歴史的意義、そこからわかること [3)日本の歴史]

新発見されたシーボルト書簡、その全容と歴史的意義、そこからわかること

幕末維新史探訪2023(6)新発見の書簡から読み解くシーボルトの実像③
2023.2.15(水)町田 明広
「日本植物目録」見開き 神田外語大学附属図書館所蔵

(町田 明広:歴史学者)

「日本植物目録」の草稿完成と改定依頼

 今回の大発見となったシーボルト書簡・「日本植物目録」の学術的な詳細については、遠藤正治・鳥井裕美子・松田清(共著)「神田外語大学附属図書館所蔵 シーボルト編/伊藤圭介・賀来佐之録「日本植物目録」について」(神田外語大学日本研究所紀要8号、2016年、31~87頁)を参照いただくこととして、ここではその概要について触れておきたい。

 1827年10月末から、シーボルトは50名以上いる弟子の中の1人、医師・伊藤圭介が尾張(名古屋)から長崎に持ち込んだ約1600種の植物標本に、伊藤とその兄弟子にあたる医師・賀来佐之の協力を得て、学名と和名を付して分類し、目録を作成する作業を出島で精力的に行った。その結果、早くも半年後には「日本植物目録」の草稿を完成させたのだ。

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織田信長と徳川家康は「清洲同盟」で同席していない?徳川最古の史料の真実 [3)日本の歴史]

織田信長と徳川家康は「清洲同盟」で同席していない?徳川最古の史料の真実

記主不明の『松平記』とはどんなもので、誰によって書かれたのか?
2023.2.14(火)乃至 政彦
『松平記』国立公文館蔵

(歴史家:乃至政彦)

清洲同盟の実否

 尾張・織田信長と三河・徳川家康(当時は松平元康)の同盟「清洲同盟」で、両者は面会していなかったとする説が有力である。このあたりインターネットでも最新の説がどうかは紹介されているようなので、私からさらにその実否を唱える必要はないと思う。

 この同盟に関しては、徳川家康の編纂史料で最古のものとされる『松平記』(全六巻)に次の説明があり、概ねこの通りであったと考える。

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タグ:清洲同盟
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信長が「たわけ」と呼ばれた本当のワケ [3)日本の歴史]

信長が「たわけ」と呼ばれた本当のワケ

お市の方は信長、家康とも交わっていた!?
2023.2.7(火)市川 蛇蔵

連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

信長は敵対する相手を「根切り」といって皆殺しにするなど残忍な一面があったが、女性には・・・

 織田信長は27歳の時、2万5000の大軍を率いる今川義元を、自身が率いる僅か4000人の兵で挑み、義元を討ち破った。戦国の世を揺るがせた「桶狭間の戦い」である。

 その後、信長は中濃(美濃)攻略戦により支配勢力を拡大させ、以降、浅井長政や朝倉義景、武田勝頼といった有力武将を破竹の勢いで次々と打ち破りながら駒を進めた。

 だが、羽柴秀吉に命じて行った中国攻略の最中、明智光秀に本能寺の変で討たれ横死。信長の亡骸は見つかっていない。

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タグ:信長
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女の園「大奥」設立の歴史:将軍・家光の男色が礎を築いた [3)日本の歴史]

女の園「大奥」設立の歴史:将軍・家光の男色が礎を築いた

「本能寺の変」の後、生き延びた光秀、黒幕は家康だった
2023.1.13(金)市川 蛇蔵

連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

史実には現れない家康と光秀の密約は存在したのか

 将軍に限らず武家にとって最も重要視される責務は、子孫をつくって家名を存続されることにある。

 跡取りである男児の誕生は、将軍の務めであり、もし、子供をもうけることができなければ、次期将軍の座を巡り後継者問題が浮上しかねない。

 江戸幕府の第2代将軍・秀忠は江戸城に家居し、駿府城に居住する大御所・家康の意を汲んだ二元政治体制を執った。

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後鳥羽上皇が見誤った「尼将軍」北条政子のカリスマ性はどうして生まれたのか [3)日本の歴史]

後鳥羽上皇が見誤った「尼将軍」北条政子のカリスマ性はどうして生まれたのか

鎌倉殿の時代(48)後鳥羽上皇の誤算
2022.12.19(月)西股 総生
伊豆の蛭が小島に立つ頼朝・政子像 撮影/西股 総生

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

政子が「尼将軍」と名乗った史実はない

 一般に、北条政子は「尼将軍」として知られています。『鎌倉殿の13人』の中でも、小池栄子さん演ずる政子が、少々ドヤ顔気味に「尼将軍」を名乗っていましたね。ただし、史実では政子がそう名乗っていたわけでありません。

 そもそも、征夷大将軍は朝廷が任ずる武官ですから、尼の政子が任官するはずはないのです。政子が幕府内に君臨する姿を、人々が「まるで尼将軍だね」と評したにすぎません。ではなぜ、政子は「尼将軍」と呼ばれるほどの存在感をもったのでしょう?

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北条義時だけではない!目立たないけど実は大きな功績を残した「二代目」たち [3)日本の歴史]

北条義時だけではない!目立たないけど実は大きな功績を残した「二代目」たち

徳川秀忠、足利義詮、岩崎弥之助の活躍を再評価
2022.12.19(月)花園 祐
(出所:写真AC)

(花園 祐:中国・上海在住ジャーナリスト)

 2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、戦国時代などと比べるとややマイナーな鎌倉時代初期の人物や事件にスポットが当てられました。そうしたマイナーな時代ながら、脚本家の三谷幸喜氏をはじめとする制作陣や出演者らの努力もあってか大いに話題となり、視聴者からも好評を博したようです。

 この作品では小栗旬氏が演じる鎌倉幕府第二代執権の北条義時(1163~1224年)が、全編における主役として据えられていました。

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「承久の乱」北条義時に京都進撃を決意させた“あの男”の一言 [3)日本の歴史]

「承久の乱」北条義時に京都進撃を決意させた“あの男”の一言

なぜ後鳥羽上皇に立ち向かう大胆な策を打ち出すことができたのか
2022.12.11(日)真山 知幸
承久の乱後、後鳥羽上皇と血縁関係にある三千院の門主が建造した京都・大原「法華堂」(写真:PIXTA)

 後鳥羽上皇が、鎌倉幕府を牛耳る北条義時の討伐を命じた「承久の乱」。結果的には、幕府側が圧勝し、以後、武家政権は盤石なものとなった。しかし、後鳥羽上皇が挙兵した時点では、決して簡単な戦いではなく、幕府は2つの作戦の間で揺れていた。立地的に守りやすい鎌倉に籠城するか、思い切って軍勢を京都に差し向けるか――。

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上杉謙信と椎名康胤の因縁の闘争、康胤はいつ松倉城を奪われたか? [3)日本の歴史]

上杉謙信と椎名康胤の因縁の闘争、康胤はいつ松倉城を奪われたか?

謙信再度の越中侵攻、松倉城陥落の伝説を同時代史料から探る
2022.12.13(火)乃至 政彦
松倉城跡 写真/フォトライブラリー

(歴史家:乃至政彦)

※この記事は、シンクロナスで連載中の「謙信と信長」の記事を一部抜粋して再編したものです。より詳しい内容は同連載をご覧ください。

越後の上杉謙信と越中東部の椎名康胤

 越中東部(新川郡)の松倉城主・椎名康胤は、永禄5年(1562)頃、越後の上杉謙信の身内である長尾小四郎(景直)を養子に迎え入れた。これにより康胤は、ライバルである越中西部の増山城主(もと富山城主)・神保長職(じんぼながもと)を謙信が押さえ込んでくれることを期待した。

 謙信と康胤win-winの関係成立である。

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鎌倉幕府の4代将軍、なぜわずか2歳の藤原頼経に白羽の矢が立ったのか [3)日本の歴史]

鎌倉幕府の4代将軍、なぜわずか2歳の藤原頼経に白羽の矢が立ったのか

源実朝の暗殺ですべて白紙に、手のひらを返した後鳥羽上皇と「尼将軍」の誕生
2022.12.4(日)真山 知幸
藤原頼経によって創建された鎌倉・明王院(写真:PIXTA)

(真山 知幸:偉人研究家)

 鎌倉幕府の4代将軍は誰か。即答できる人はそれほど多くはないだろう。初代将軍の源頼朝が鎌倉幕府を開くと、長男の源頼家が後を継いで、2代将軍となった。頼家が北条氏によって殺害されたことで、弟の源実朝が3代将軍に就く。もともと大きな勢力を誇っていた北条氏は、実朝が暗殺されると、いよいよ幕府の実権を掌握。将軍職は存続したものの、4代将軍の存在が語られることはあまりに少ない。どんな経緯で、実朝の後継者が決まったのだろうか。

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なぜ織田信長は残忍になったのか?延暦寺焼き討ちと「覇王」誕生の理由 [3)日本の歴史]


なぜ織田信長は残忍になったのか?延暦寺焼き討ちと「覇王」誕生の理由

足利幕府を自ら滅亡させたことで失った、信長の政治的アイデンティティ
2022.11.8(火)乃至 政彦


織田信長像 写真/アフロ

(歴史家:乃至政彦)

※この記事は、シンクロナスで連載中の「謙信と信長」の記事を一部抜粋して再編したものです。より詳しい内容は同連載をご覧ください。

比叡山焼き討ちの理由

 元亀2年(1571)9月12日、織田信長は近江比叡山・延暦寺を焼き討ちした。

 この焼き討ちはあくまでも、信長と(第一次)織田包囲網の私戦であった。

 しかし信長と比叡山は、もとから私的な対立があったわけではない。はじめ比叡山は、将軍・足利義昭を打倒する陣営として織田軍に攻撃したのだ。言うなれば、「足利義昭包囲網」である。信長は義昭を支える大名としてこれに立ち向かった。

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タグ:織田信長
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新政府内における前原一誠の栄光と挫折、不平士族の反乱と萩の乱への決断 [3)日本の歴史]

新政府内における前原一誠の栄光と挫折、不平士族の反乱と萩の乱への決断

幕末維新人物伝2022(17)「前原一誠と萩の乱③」
2022.10.19(水)町田 明広
前原一誠旧宅 写真/フォトライブラリー

(町田 明広:歴史学者)

幕末維新人物伝2022(15)「前原一誠と萩の乱①」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/72052
幕末維新人物伝2022(16)「前原一誠と萩の乱②」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/72053

前原と戊辰戦争

 慶応3年(1867)12月25日、薩摩藩邸焼き討ち事件(三田品川戦争)が勃発し、事実上、ここに旧幕府対薩摩藩を主軸とした戊辰戦争が幕を開けた。慶応4年(1868、明治元年に9月8日改元)1月3日、鳥羽伏見の戦いが始まり、兵数では圧倒的優位であった旧幕府軍が破れ、徳川慶喜は海路江戸に脱出し、以後は新政府に対して恭順の姿勢を貫いた。しかし、旧幕府軍は東北を中心に抵抗抗戦を繰り広げ、戊辰戦争は翌明治2年(1869)5月の函館戦争まで継続したのだ。

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タグ:前原一誠
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『鎌倉殿の13人』「13人」が揃うのは一瞬…数字が意味するものとは? [3)日本の歴史]

『鎌倉殿の13人』「13人」が揃うのは一瞬…数字が意味するものとは?

鎌倉殿の時代(37)「13人」の意味するもの
2022.9.26(月)西股 総生
鶴岡八幡宮 写真/アフロ

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

ドラマ後半は「13人」のサバイバル

 今回は、いつもとは少し趣向を変えて、『鎌倉殿の13人』というドラマのタイトルについて考えてみましょう。

 筆者はこのドラマで、「中世軍事考証」を担当しています。大河に関わるのは『真田丸』に続いて2度目ですが、主に合戦や武具について専門的見地からアドバイスする役目です。

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司馬遼太郎が話したメッケル少佐の逸話、元ネタは海音寺潮五郎のエッセイ? [3)日本の歴史]

司馬遼太郎が話したメッケル少佐の逸話、元ネタは海音寺潮五郎のエッセイ?

近代戦術家は関ヶ原の西軍勝利を確信したか?(後編)
2022.9.14(水)乃至 政彦
石田三成

(歴史家:乃至政彦)

近代戦術家は関ヶ原の西軍勝利を確信したか?(前編)https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/71777

司馬遼太郎と松本清張の対談から

 前回、メッケルの「西軍の勝ち」はフィクションであると述べた。

 ではこの逸話はどこから生まれたのだろうか。

 これについてはここ数年インターネットで語られるように、司馬遼太郎の対談集『日本史探訪』(角川書店・1976)所収の対談「関ヶ原」(対話者・松本清張)が出典であるだろう。これはもともとNHK総合のテレビ番組で、初出情報は、昭和45年度(1970)放送分にある。

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タグ:司馬遼太郎
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会津藩・松平容保の悲劇の始まり。長州藩との戦いと薩摩藩との対立 [3)日本の歴史]

会津藩・松平容保の悲劇の始まり。長州藩との戦いと薩摩藩との対立

幕末維新人物伝2022(13)「京都守護職・松平容保の苦悩②」
2022.9.14(水)町田 明広
京都守護職が置かれた金戒光明寺の山門の額 写真/アフロ

(町田 明広:歴史学者)

幕末維新人物伝202212)「京都守護職・松平容保の苦悩①」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/71654

松平容保の京都守護職就任

 文久2年(1862)閏8月1日、会津藩主松平容保は期せずして京都守護職に就任し、同年12月24日に上京した。容保は、禁裏御守衛総督の一橋慶喜、京都所司代の松平定敬(容保の実弟)とともに、京都の治安維持にあたることになったのだ。いわゆる、一会桑勢力である。容保は守護職として、新選組を傘下に置くなどして、その職責を十分に果たした。

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2022.09.12
鷹橋 忍
城南宮の松の木 写真=アフロ

三種の神器なき即位

 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も、クライマックスの承久の乱に向けて、乱のもう一人の主役である、尾上松也演じる後鳥羽院(後鳥羽上皇)の出番も増えてきた。

 治天の君(朝廷の政務の実質的な指導者の総称)として君臨し、最大の敵として北条義時の前に立ちはだかることになる後鳥羽とは、どのような人物なのだろうか。

 後鳥羽は、治承4年(1180)7月14日に、高倉天皇の第四皇子として誕生した。源頼朝の挙兵の約1ヶ月前である。

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鎌倉殿の時代(35)鎌倉武士と城
2022.9.12(月)西股 総生
埼玉県嵐山町の菅谷城跡 撮影/西股 総生(以下同)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

戦国時代の城としか思えないものも・・・

 今回は、鎌倉武士と城について考えてみます。 

 全国各地にある城を訪れて、そこに立っている説明板を読むと、「この地に最初に城を築いたのは、鎌倉時代の誰それと伝えられている」と書かれていることが、よくあります。いえ、看板だけではなく、出版物なんかにも同じことが書いてあります。

 東京近郊の城跡を例にとってみると、神奈川県藤沢市の大庭城は大庭景親が、同じく平塚市の岡崎城は岡崎義実が築いたことになっています。あるいは、埼玉県嵐山町の菅谷(すがや)城は畠山重忠が築いたとされていて、城跡には重忠の像も建っています。

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