●幕末に生きた武士に最も影響を与えた後期水戸学①
●幕末に生きた武士に最も影響を与えた後期水戸学②
(町田 明広:歴史学者)
藤田幽谷の『正名論』
今回は、「水戸学の三傑」について、その代表的著作を中心に据えて紹介していこう。最初に、藤田幽谷(1774~1826)であるが、寛政3年(1791)に後期水戸学の草分けとされる『正名論』を著した。その中で、「幕府、皇室を尊(たっと)べば、すなはち諸侯、幕府を崇とび、諸侯、幕府を崇べば、すなはち卿・大夫、諸侯を敬す」と述べている。
●幕末に生きた武士に最も影響を与えた後期水戸学①
●幕末に生きた武士に最も影響を与えた後期水戸学②
(町田 明広:歴史学者)
今回は、「水戸学の三傑」について、その代表的著作を中心に据えて紹介していこう。最初に、藤田幽谷(1774~1826)であるが、寛政3年(1791)に後期水戸学の草分けとされる『正名論』を著した。その中で、「幕府、皇室を尊(たっと)べば、すなはち諸侯、幕府を崇とび、諸侯、幕府を崇べば、すなはち卿・大夫、諸侯を敬す」と述べている。
(歴史家:乃至政彦)
惟任光秀が作った「織田家唯一の軍法」がある。今回はその狙いに迫ってみたい。
本能寺の変を起こす月日のちょうど1年前、明智こと惟任(これとう)光秀は家中の軍法を定めた。歴史学界で「明智光秀家中軍法」(御霊神社所蔵)と呼ばれている史料である。
細かいことを言うと、光秀はこの時期すでに明智を使わなくなっていて、惟任と名乗って久しいので、「惟任光秀家中軍法」と呼ぶべきだと思う(この時期の光秀を「明智光秀」と呼ぶのは、晩年の徳川家康を松平家康、豊臣秀吉を木下秀吉と呼ぶようなものである)。
酒は「人間関係の潤滑油」と言われる。確かに会社の上司や部下、取引先などと酒を酌み交わし、本音をさらけ出すことで信頼関係を深め合えることもある。だが逆に、酒が入ったときの言動によって信頼関係をぶち壊してしまうこともあるのは読者諸兄もご存じの通り。同じことは政治や外交の世界でも起きている。上手に酒を使って仕事をした政治家もいれば、酒で取り返しのつかない失態を犯した者も……。そうした古今東西の政治家の酒にまつわるエピソードを集めた『政治家の酒癖』(栗下直也著、平凡社新書)が面白い。同書の中から選りすぐりのエピソードを紹介したい(JBpress編集部)。
(町田 明広:歴史学者)
水戸学とは、第2代水戸藩主の徳川光圀が始めた『大日本史』の編纂事業が継続される中で、藩内で醸成された学問のことである。その目的は、過去の日本の歴史を朱子学的な大義名分から明らかにすることにあった。
水戸学は、前期と後期に区分されている。18世紀初めまで、『大日本史』の本紀・列伝・論賛の編纂に取り組んだのが前期である。そして、第9代藩主の徳川斉昭の治世である18世紀末期から幕末にかけて、編纂事業は継続しつつも、政治的課題の解決にも目を向けたのが後期である。その舞台となったのが、斉昭が設置した藩校の弘道館であったのだ。
(町田 明広:歴史学者)
幕末がいつから始まったのか、様々な意見が存在する。筆者は、天保期(1830~1844)から始まるものの、目に見える形としては、ペリー来航(1853)であろうと考えている。
その天保期以前から、外国船が日本近海に出没し始めていたが、幕府は特段の対策を見出すことができなかった。また、数々の天変地異(地震・火山噴火・冷害など)による社会不安への対応もままならなかった。これらが積み重なって、幕府の武威(軍事力に裏打ちされた威光)や幕府への信頼は大きく失墜して、幕末期を迎えていたのだ。
幕末の1861(文久元)年、ロシアの軍艦「ポサドニック号」が対馬に侵攻し、芋崎半島に勝手に上陸して兵舎や工場、練兵場などを建て、略奪・拉致などの乱暴を働いた。揚げ句は芋崎の租借を要求してきた。
この「ポサドニック号事件」は、日本にロシアの軍事的脅威を思い知らせた大事件だった。最終的に、強大な海軍力を持つ英国に軍艦を対馬に差し向けてもらってポサドニック号を追い払ったが、ロシアはその後も南下の好機を伺い続けた。
(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
今川義元は、永禄3年(1560)に尾張の桶狭間で織田信長と戦い、敗死してしまいます。では、義元はなぜ織田と戦うことになったのでしょう?
この戦いについては、これまでも多くの歴史家や作家たちがさまざまに論じてきました。中には、うがった戦略論を展開している方もありますが、本当はそれほど込み入った話ではありません。
前回説明したように、戦国時代の前半には、今川は甲斐の武田、相模の北条と三つ巴の争いを繰りひろげていました。けれども、このままではお互いに不利だということに、三者とも気づいてゆきます。
NHK大河ドラマ『どうする家康』では、主人公の徳川家康のみならず、周辺の人物も従来のイメージとは異なる描き方がされており話題を呼んでいる。第6回放送分では、作戦が失敗に終わった前回に引き続き、今川氏の支配する駿府に残した妻子を奪還すべく、家康と本多正信や石川数正らの家臣が活躍する。第6回の見所ポイントや素朴な疑問について、『なにかと人間くさい徳川将軍』の著者で偉人研究家の真山知幸氏が解説する。なお、言及するのはまだ家康が「元康」と名乗っていた頃だが、この記事では「家康」で統一する。(JBpress編集部)
連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識
江戸幕府3代将軍・徳川家光の4男として誕生した徳川綱吉。
綱吉は、次期将軍となる兄・家綱を支えるために、父・家光のすすめで儒学、朱子学を学び、これが後に5代将軍・綱吉が目指した、武力に頼らず徳を重んずる文治政治の礎となる。
将軍批判が御法度だった江戸時代だが、綱吉の醜聞は当時から世間に広く知られていた。
父・家光が30歳を過ぎても男色に血道を上げていた一方、綱吉は男女ともに交わる二刀流であった。
(町田 明広:歴史学者)
今回の大発見となったシーボルト書簡・「日本植物目録」の学術的な詳細については、遠藤正治・鳥井裕美子・松田清(共著)「神田外語大学附属図書館所蔵 シーボルト編/伊藤圭介・賀来佐之録「日本植物目録」について」(神田外語大学日本研究所紀要8号、2016年、31~87頁)を参照いただくこととして、ここではその概要について触れておきたい。
1827年10月末から、シーボルトは50名以上いる弟子の中の1人、医師・伊藤圭介が尾張(名古屋)から長崎に持ち込んだ約1600種の植物標本に、伊藤とその兄弟子にあたる医師・賀来佐之の協力を得て、学名と和名を付して分類し、目録を作成する作業を出島で精力的に行った。その結果、早くも半年後には「日本植物目録」の草稿を完成させたのだ。
連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識
織田信長は27歳の時、2万5000の大軍を率いる今川義元を、自身が率いる僅か4000人の兵で挑み、義元を討ち破った。戦国の世を揺るがせた「桶狭間の戦い」である。
その後、信長は中濃(美濃)攻略戦により支配勢力を拡大させ、以降、浅井長政や朝倉義景、武田勝頼といった有力武将を破竹の勢いで次々と打ち破りながら駒を進めた。
だが、羽柴秀吉に命じて行った中国攻略の最中、明智光秀に本能寺の変で討たれ横死。信長の亡骸は見つかっていない。
(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
一般に、北条政子は「尼将軍」として知られています。『鎌倉殿の13人』の中でも、小池栄子さん演ずる政子が、少々ドヤ顔気味に「尼将軍」を名乗っていましたね。ただし、史実では政子がそう名乗っていたわけでありません。
そもそも、征夷大将軍は朝廷が任ずる武官ですから、尼の政子が任官するはずはないのです。政子が幕府内に君臨する姿を、人々が「まるで尼将軍だね」と評したにすぎません。ではなぜ、政子は「尼将軍」と呼ばれるほどの存在感をもったのでしょう?
(花園 祐:中国・上海在住ジャーナリスト)
2022年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、戦国時代などと比べるとややマイナーな鎌倉時代初期の人物や事件にスポットが当てられました。そうしたマイナーな時代ながら、脚本家の三谷幸喜氏をはじめとする制作陣や出演者らの努力もあってか大いに話題となり、視聴者からも好評を博したようです。
この作品では小栗旬氏が演じる鎌倉幕府第二代執権の北条義時(1163~1224年)が、全編における主役として据えられていました。
後鳥羽上皇が、鎌倉幕府を牛耳る北条義時の討伐を命じた「承久の乱」。結果的には、幕府側が圧勝し、以後、武家政権は盤石なものとなった。しかし、後鳥羽上皇が挙兵した時点では、決して簡単な戦いではなく、幕府は2つの作戦の間で揺れていた。立地的に守りやすい鎌倉に籠城するか、思い切って軍勢を京都に差し向けるか――。
(真山 知幸:偉人研究家)
鎌倉幕府の4代将軍は誰か。即答できる人はそれほど多くはないだろう。初代将軍の源頼朝が鎌倉幕府を開くと、長男の源頼家が後を継いで、2代将軍となった。頼家が北条氏によって殺害されたことで、弟の源実朝が3代将軍に就く。もともと大きな勢力を誇っていた北条氏は、実朝が暗殺されると、いよいよ幕府の実権を掌握。将軍職は存続したものの、4代将軍の存在が語られることはあまりに少ない。どんな経緯で、実朝の後継者が決まったのだろうか。
(歴史家:乃至政彦)
※この記事は、シンクロナスで連載中の「謙信と信長」の記事を一部抜粋して再編したものです。より詳しい内容は同連載をご覧ください。
元亀2年(1571)9月12日、織田信長は近江比叡山・延暦寺を焼き討ちした。
この焼き討ちはあくまでも、信長と(第一次)織田包囲網の私戦であった。
しかし信長と比叡山は、もとから私的な対立があったわけではない。はじめ比叡山は、将軍・足利義昭を打倒する陣営として織田軍に攻撃したのだ。言うなれば、「足利義昭包囲網」である。信長は義昭を支える大名としてこれに立ち向かった。
(町田 明広:歴史学者)
◉幕末維新人物伝2022(15)「前原一誠と萩の乱①」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/72052)
◉幕末維新人物伝2022(16)「前原一誠と萩の乱②」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/72053)
慶応3年(1867)12月25日、薩摩藩邸焼き討ち事件(三田品川戦争)が勃発し、事実上、ここに旧幕府対薩摩藩を主軸とした戊辰戦争が幕を開けた。慶応4年(1868、明治元年に9月8日改元)1月3日、鳥羽伏見の戦いが始まり、兵数では圧倒的優位であった旧幕府軍が破れ、徳川慶喜は海路江戸に脱出し、以後は新政府に対して恭順の姿勢を貫いた。しかし、旧幕府軍は東北を中心に抵抗抗戦を繰り広げ、戊辰戦争は翌明治2年(1869)5月の函館戦争まで継続したのだ。
(歴史家:乃至政彦)
◉近代戦術家は関ヶ原の西軍勝利を確信したか?(前編)(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/71777)
前回、メッケルの「西軍の勝ち」はフィクションであると述べた。
ではこの逸話はどこから生まれたのだろうか。
これについてはここ数年インターネットで語られるように、司馬遼太郎の対談集『日本史探訪』(角川書店・1976)所収の対談「関ヶ原」(対話者・松本清張)が出典であるだろう。これはもともとNHK総合のテレビ番組で、
(町田 明広:歴史学者)
◉幕末維新人物伝2022(12)「京都守護職・松平容保の苦悩①」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/71654)
文久2年(1862)閏8月1日、会津藩主松平容保は期せずして京都守護職に就任し、同年12月24日に上京した。容保は、禁裏御守衛総督の一橋慶喜、京都所司代の松平定敬(容保の実弟)とともに、京都の治安維持にあたることになったのだ。いわゆる、一会桑勢力である。容保は守護職として、新選組を傘下に置くなどして、その職責を十分に果たした。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も、クライマックスの承久の乱に向けて、乱のもう一人の主役である、尾上松也演じる後鳥羽院(後鳥羽上皇)の出番も増えてきた。
治天の君(朝廷の政務の実質的な指導者の総称)として君臨し、最大の敵として北条義時の前に立ちはだかることになる後鳥羽とは、どのような人物なのだろうか。
後鳥羽は、治承4年(1180)7月14日に、高倉天皇の第四皇子として誕生した。源頼朝の挙兵の約1ヶ月前である。
(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
今回は、鎌倉武士と城について考えてみます。
全国各地にある城を訪れて、そこに立っている説明板を読むと、「この地に最初に城を築いたのは、鎌倉時代の誰それと伝えられている」と書かれていることが、よくあります。いえ、看板だけではなく、出版物なんかにも同じことが書いてあります。
東京近郊の城跡を例にとってみると、神奈川県藤沢市の大庭城は大庭景親が、同じく平塚市の岡崎城は岡崎義実が築いたことになっています。あるいは、埼玉県嵐山町の菅谷(すがや)城は畠山重忠が築いたとされていて、城跡には重忠の像も建っています。