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明治の反知性主義が見た中国 [3)日本の歴史]

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関門海峡(Taku_S/gettyimages)

 水戸で天狗党が挙兵し、池田屋事件が起こり、四国連合艦隊が下関を砲撃した元治元(1864)年、阿川太良は長州に生まれた。身分は士族である。長じて地元選出衆議院議員秘書として上京した後、庚寅新誌社に転じた。

 ところが後輩から「あなた人は良いが西洋の学問も英語も学んでいない。だから先ずは成功の見込みなし。支那辺りに行けば道は開けるかも知れない」などという失礼千万な暴言を浴びせられる。これで発奮しなければ、やはり男が廃る。

 早速、上海から新聞を取り寄せ猛勉強を重ね、庚寅新誌社を離れて玄界灘を渡った。日清戦争に向かって風雲急を告げていた明治26(1893)年のことであった。

 この年の5月、日本では海軍軍令部条例と戦時大本営条例が公布されている。翌年になると、朝鮮独立党指導者の金玉均が上海で暗殺され(3月)、農民運動を指導する朝鮮東学党が全州を占領し(6月1日)、清国の朝鮮出兵に対抗し日本が朝鮮派兵を決定し(6月2日)、朝鮮側が清朝に援兵を請求する(6月3日)。かくてと緊張が続き、遂に清国に対する宣戦布告(8月1日)となった。

 

 

 

 


タグ:明治人
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【語り継ぎたい天皇の和歌】個性的な発想で初冬を詠む [2)皇室・ニュース]

【語り継ぎたい天皇の和歌】個性的な発想で初冬を詠む

 第88代後嵯峨天皇は鎌倉時代の天皇です。武家政権が台頭する中、古(いにしえ)より受け継がれた朝廷の復権をめざして、後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権の北条義時に兵を挙げたのは1221年のことでした。世に知られた承久の乱です。後鳥羽上皇は隠岐に、後嵯峨天皇の父である土御門上皇は土佐に流されました。

 後嵯峨天皇が生まれたのは、この乱の前年のことでした。わずか1年で母が亡くなり、その上、乱による配流で父とは生き別れになったのです。そのため母方の大叔父のもとに身を寄せ、20歳を過ぎても元服すらままならないという大変な苦難を余儀なくされました。

 

 

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