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日本初の武家政権を打ち立てた頼朝、最初の戦いの兵力は? [3)日本の歴史]

日本初の武家政権を打ち立てた頼朝、最初の戦いの兵力は?

鎌倉殿の時代(5)挙兵の兵力はどのくらい?
2022.2.7(月)西股 総生
源頼朝が源氏再興を祈願した三嶋大社。頼朝は三嶋大社の祭礼の日に挙兵した

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

鎌倉殿の時代(1)頼朝を取り巻く人々PART1
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68307
鎌倉殿の時代(2)武士とは何者か?
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68308
鎌倉殿の時代(3)院政とは(前編)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68310
鎌倉殿の時代(4)院政とは(後編)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68311

頼朝軍の主力は「一家」と「兄弟」

 伊豆でついに平家打倒の兵を挙げた頼朝。では、そのときの兵力は、どのくらいだったのでしょう? 『鎌倉殿の13人』で中世軍事考証にあたっている私の考えは、以下のようなものです。

 まずは、山木邸襲撃ですが、頼朝直属の家人は安達盛長だけ。『吾妻鏡』によれば、このとき頼朝は、参加を約束してくれた佐々木四兄弟がなかなか来ないので、かなり焦っています。だとしたら、頼朝がアテにできた兵力は、佐々木兄弟が決定的な戦力になるくらいの数、と考えてよいでしょう。

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「院政」の正体、上皇・法皇はなぜ日本を支配できたのか? [3)日本の歴史]

「院政」の正体、上皇・法皇はなぜ日本を支配できたのか?

鎌倉殿の時代(4)院政とは(後編)
2022.1.31(月)西股 総生
厳島神社の平清盛像 写真/アフロ

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

鎌倉殿の時代(1)頼朝を取り巻く人々PART1
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68307
鎌倉殿の時代(2)武士とは何者か?
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68308
鎌倉殿の時代(3)院政とは(前編)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68310

院が朝廷に君臨できる理由

前編から)荘園の乱立による皇室財政の窮乏に直面した朝廷は、たびたび荘園整理令を出しました。手続きに疑問点のある荘園の認可を取り消して、国庫収入の回復を図ろうとしたのです。でも、天皇がいくら意気込んでも、実際に許認可を司る政治家(=貴族)たちが、荘園の既得権益層なのですから、うまくゆくはずがありません。

 こうして、荘園整理令がなかなか効果をあげない中で皇位についたのが、白河天皇です。彼は、逆転の発想で問題を解決する方向に踏み出しました。貴族たちが、法の網の目をかいくぐり、抜け道をさがして資産形成にはげむのなら、自分(天皇家)も同じことをすればよいのだ、と。

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日本にもあった「呪術大戦」の時代を知っている? [3)日本の歴史]

日本にもあった「呪術大戦」の時代を知っている?

陰陽師とは何をする人だったのか?
2022.1.29(土)島崎 晋
陰陽師を象徴する安倍晴明の像(晴明神社/京都市上京区晴明町)

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で描かれる鎌倉時代は、陰陽師の歴史でもある。呪術とは呪いの法。その呪術=陰陽道を操りながら動乱の時代を駆け巡った陰陽師たちの活躍とは。

戦国の武士と違った平安・鎌倉の東国武士

 NHKの大河ドラマ、北条義時を主人公とする『鎌倉殿の13人』の放送が開始。1981年度放送の『草燃える』とほぼ同じ、平安時代末から鎌倉時代初めを舞台とするが、ヒットメーカーの三谷幸喜が脚本を務めるとあって、小栗旬演じる北条義時を中心に、大泉洋演じる源頼朝、小池栄子演じる北条政子、中村獅童演じる梶原景時、佐藤二朗演じる比企能員などが、どんなドラマを展開してくれるのか大いに期待される。

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タグ:呪術大戦
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日本にもあった「呪術大戦」の時代を知っている? [3)日本の歴史]

日本にもあった「呪術大戦」の時代を知っている?

陰陽師とは何をする人だったのか?
2022.1.29(土)島崎 晋
陰陽師を象徴する安倍晴明の像(晴明神社/京都市上京区晴明町)

2022年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で描かれる鎌倉時代は、陰陽師の歴史でもある。呪術とは呪いの法。その呪術=陰陽道を操りながら動乱の時代を駆け巡った陰陽師たちの活躍とは。

戦国の武士と違った平安・鎌倉の東国武士

 NHKの大河ドラマ、北条義時を主人公とする『鎌倉殿の13人』の放送が開始。1981年度放送の『草燃える』とほぼ同じ、平安時代末から鎌倉時代初めを舞台とするが、ヒットメーカーの三谷幸喜が脚本を務めるとあって、小栗旬演じる北条義時を中心に、大泉洋演じる源頼朝、小池栄子演じる北条政子、中村獅童演じる梶原景時、佐藤二朗演じる比企能員などが、どんなドラマを展開してくれるのか大いに期待される。

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タグ:呪術大戦
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「闘う貴族」一条兼定の家臣だった?長宗我部元親の真実 [3)日本の歴史]


「闘う貴族」一条兼定の家臣だった?長宗我部元親の真実

「御所体制」論から考察する、長宗我部と土佐一条家の関係
2022.1.19(水)中脇 聖
長宗我部元親

(中脇 聖:日本史史料研究会研究員)

長宗我部元親と土佐一条家の関係

 戦国時代(諸説あるが、おおよそ1455年の享徳の乱から1573年の足利義昭の京都追放までの時期をいう)、土佐国(現在の高知県)を統一し、四国全体をほぼ統一しかけた大名長宗我部元親については、高校の教科書などに記される「長宗我部元親百箇条」(長宗我部掟書)という分国法やゲーム(信長の野望・戦国BASARAなど)、司馬遼太郎さんの小説(『夏草の賦』)などで、名前だけはなんとなく憶えているという読者が多いのではないだろうか。

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『鎌倉殿の13人』に登場する、鎌倉幕成立に関わる重要人物たち [3)日本の歴史]

『鎌倉殿の13人』に登場する、鎌倉幕成立に関わる重要人物たち

鎌倉殿の時代(1)頼朝を取り巻く人々PART1
2022.1.10(月)西股 総生
鎌倉の源氏山に立つ源頼朝像 撮影/西股 総生(以下同)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

鎌倉幕府成立を語る上で欠かせない人物

『鎌倉殿の13人』の第1回、ご覧になりましたか?

 昨年、当サイトで「鎌倉殿への道」を連載させていただいた私(西股総生)は、このドラマに中世軍事考証という立場で関わらせていただいております。主に、戦いや武器についてのアドバイザーですね。そこで、せっかくのご縁ですので、当サイトでも皆さんのドラマ鑑賞をサポートできるような解説を、連載してみたいと思います。

 まずは、登場人物。ドラマの第1回は、北条時政の屋敷でにぎやかに繰りひろげられる宴会が中心でした。近隣の武士たちが大勢集まり、屋敷の隅では逃げてきた頼朝をめぐって、若者たちが一騒動。彼らの間には、何やら複雑な人間関係やら利害関係が、あるようです。

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還俗と出家を繰り返した上杉謙信、川中島は「僧兵姿」ではない? [3)日本の歴史]

還俗と出家を繰り返した上杉謙信、川中島は「僧兵姿」ではない?

還俗と出家、さらに還俗した理由と第四次川中島合戦のタイミング
2022.1.4(火)乃至 政彦
月岡芳年「芳年武者无類 弾正少弼上杉謙信入道輝虎」(部分)

(乃至 政彦:歴史家)

上杉謙信は何回出家した?

 享禄3年(1530)寅年生まれの上杉謙信は、幼名を「長尾虎千代」といい、7つで元服して「長尾平三景虎」の名乗りを得た。長尾は名字、平三(へいざ)は仮名(けみょう。通称のこと)、景虎が実名(じつみょう。諱)である。

 謙信は寅年生まれなので、これに因んで幼名と実名に「虎」の一文字が入ることになったという。武家政権時代にはよくあることである。

 元服した年齢は早いが、これもこの時代の上級武士には、まま見られることである。巷説には謙信は14〜15歳で元服するまで林泉寺に預けられたというが、一次史料二次史料のどちらにもそのような記録は認められない。

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タグ:上杉謙信
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鎌倉幕府が成立したのは何年なのか、改めて考える [3)日本の歴史]

鎌倉幕府が成立したのは何年なのか、改めて考える

鎌倉殿への道(21)鎌倉幕府の権力の源泉とは?
2021.12.27(月)西股 総生
武家政権となった鎌倉の地。海に面し、三方を山に囲まれている 撮影/西股 総生

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

鎌倉殿への道(20)幕府とは? 鎌倉殿とは?
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68126

武士たちによって推戴されるボス=「鎌倉殿」

 日本の中世〜近世の場合、武家政権のボス=征夷大将軍という図式で考えるかぎり、征夷大将軍が率いる武家政権=幕府になる。全体とするなら、この図式で説明した方が、わかりやすい。

 ただし、政権の成立期については、必ずしもこの図式が当てはまらない。権力というものは、ある日突然、ぽこんと爆誕するわけではないからだ。『鎌倉殿への道』の連載を読んできた方はおわかりだろうが、新しい権力は、いろいろな出来事をへながら少しずつ形づくられるものである。

 鎌倉幕府の場合だと、頼朝が鎌倉殿となったのは1180年(治承4)12月のこと。この時点で、南関東一円と北関東の一部を勢力圏とする事実上の軍事政権が成立していた、と見ることができる。

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タグ:鎌倉幕府
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渋沢栄一が大蔵大臣を断固拒否、幻の井上内閣となった本当の理由 [3)日本の歴史]

渋沢栄一が大蔵大臣を断固拒否、幻の井上内閣となった本当の理由

渋沢栄一と時代を生きた人々(26)「渋沢栄一と井上馨」
2021.12.13(月)町田 明広
井上馨 写真/近現代PL/アフロ

(町田 明広:歴史学者)

渋沢と長州藩の領袖・伊藤と井上との腐れ縁

 明治時代に入ってからの渋沢栄一は、静岡藩に仕え、その後明治政府で官の道を歩んだものの、実業界に移った以降は再び官には戻らず、政治家になることもなかった。しかし、渋沢のネットワークは尋常なものではなく、同時代の政治家とは広く交友関係を維持していた。その中でも、渋沢が高く評価した政治家として、伊藤博文、井上馨、原敬らの名前を挙げることができる。

 伊藤博文とは、渋沢が新政府に出仕して以来の関係で、同じく農民出身ということも相まって、非常に親しい間柄であった。新国家を軌道に乗せるべく、様々な近代制度の創設や整備から始まり、数多くの問題で渋沢と伊藤は協力関係にあった。

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タグ:渋沢栄一
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治承4年(1180)12月12日、ついに「鎌倉殿」が誕生する [3)日本の歴史]

治承4年(1180)12月12日、ついに「鎌倉殿」が誕生する

鎌倉殿への道(19)12月12日、「鎌倉殿」誕生 
2021.12.12(日)西股 総生
鎌倉の源氏山公園に建つ頼朝像 撮影/西股 総生(以下同)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

鎌倉殿への道(15)10月21日、頼朝と義経、感動の対面
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67345
鎌倉殿への道(16)11月5日 頼朝、佐竹氏を屈服させる
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67576
鎌倉殿への道(17)11月17日、頼朝、鎌倉に帰陣する
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67675
鎌倉殿への道(18)12月1日、平家軍を悩ませたもう一人の義経とは
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67676

鎌倉に入ってから4か月で誕生した「鎌倉殿」

 治承4年(1180)12月12日、鎌倉は青天に恵まれ、由比ヶ浜には静かな波が寄せていた。夜に入って、頼朝はそれまで仮住まいしていた上総介広常の屋敷を出て、ようやく完成した新しい御所に入った。

 満天の星の下、御所には威儀を正した大勢の御家人が控えている。同じような星空の下、20人に満たない夜襲部隊を、祈るような思いで山木邸に送り出したのは、わずか4か月前のことではなかったか。

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頼朝の強い味方、もうひとりの「義経」と平家軍の攻防 [3)日本の歴史]

頼朝の強い味方、もうひとりの「義経」と平家軍の攻防

鎌倉殿への道(18)12月1日、平家軍を悩ませたもうひとりの義経とは
2021.12.1(水)西股 総生
鶴岡八幡宮 撮影/西股 総生

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

鎌倉殿への道(15)10月21日、頼朝と義経、感動の対面
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67345
鎌倉殿への道(16)11月5日 頼朝、佐竹氏を屈服させる
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67576
鎌倉殿への道(17)11月17日、頼朝、鎌倉に帰陣する
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67675

頼朝軍が勢力を伸ばしていた頃、平家は?

 治承4年(1180)10月から11月にかけて、頼朝が富士川の合戦で平家軍を「撃退」し、常陸に佐竹氏を攻めている頃のこと。信濃で挙兵した木曽義仲は北へ勢力を広げ、さらに上野に進んで、地元の武士たちを支配下におさめようとしていた。

 11月末の時点で、南関東一円と常陸・下野の大半は頼朝の実効支配下にあった。信濃と上野の過半は木曽義仲の勢力下にあったし、甲斐と駿河は甲斐源氏一党が押さえていた。これらの地域は、朝廷の支配下から離脱していたのである。

 そればかりか、尾張・美濃・近江でも反平家方の武士たちが蜂起して、都の平家は対応に追われていた。中でも厄介だったのが、近江の山本義経である。

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戦場の鉄砲から見えた織田信長と武田勝頼の違い [3)日本の歴史]

 資金力こそ信用力!ゼニが欲しけりゃ味方につけ!とばかりにくり広げられた、であろう織田・徳川連合vs武田の買収合戦。金銭が飛び交う空中マネーの陣というわけだが、戦国時代、最終的にはリアルのバトルで勝負が決まるのである。それが「長篠の戦い」本番というわけ。

長篠古戦場の再現馬防柵(筆者撮影、以下同)

実は武田軍も鉄砲を揃えていた

 武田勝頼は天正3年(1575年)4月21日に出陣、5月6日参加全軍が三河国に集結、その兵数は、一説に1万5000。この軍勢の内訳について、ちょっと考えてみたい。

 俗に「武田騎馬軍団」などと呼ばれる武田軍だが、この当時の構成比率は28人中で鉄砲:弓:槍(長柄槍・持ち槍):馬=5:2:15:3。意外と馬の比率は高くないでしょ?

 さかのぼって弘治元年(1555年)の第二次川中島合戦で武田信玄は旭山城という拠点に援軍3000人を派遣したが、同時に300丁の鉄砲も送り込んでいる。つまり鉄砲の装備率は10%。これから見ると、長篠合戦の際には10%から18%弱とかなり鉄砲が重視されるようになっていたことがわかる。

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天皇になろうとした男・道鏡が、女帝を虜にした手練 [3)日本の歴史]

天皇になろうとした男・道鏡が、女帝を虜にした手練

何の実績もないのに出世街道をひた走った男の勝因とは
2021.11.25(木)市川 蛇蔵

連載:少子化ニッポンに必要な本物の「性」の知識

古今東西、陰茎の大きさとその形状には男女問わず関心が高いが、日本で巨根の代表者といえば奈良時代の僧侶、道鏡だろう

 世界では巨大な男性器を信仰している地域が数多くある。

 男根信仰とは古代より男性器が多産・豊穣・開運をもたらす呪力を宿すものとして崇拝されてきたもので、日本では古くから金精神と称され、広義では男根の形をした御神体を祀った神全般をあらわすこともある。

 男根の形をした御神体を祀った道祖神(塞の神)と混同されることが多いが基本的に道祖神と金精神は異なる神である。

 古来、男性器は魔除けの呪具であり、生命の源、あらゆる活動の原動力とされ、信仰の対象となっていった。

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タグ:道鏡
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病死か戦死か暗殺か、謎多き武将、長尾為景の死因とは? [3)日本の歴史]

病死か戦死か暗殺か、謎多き武将、長尾為景の死因とは?

越後の梟雄・長尾為景の野望(後編)
2021.11.5(金)乃至 政彦
富山県砺波市頼成新地内の桜の木の下にひっそりとたたずむ「長尾塚」。為景が一向一揆との戦いで敗れて死亡したとの説により、長尾為景の墓とされる。

(乃至 政彦:歴史家)

越後の梟雄・長尾為景の野望(前編)

生没年不明だった長尾為景

 越後守護代・長尾為景が、文明18年(1486)生まれであることは前回述べた。歴史研究の世界でこれが確定したのは今から4年前のことである。

 では、為景の没年はどうだろうか。

 こちらも長い間不明で、死因すらも明確ではなく、戦死であると記すものが多かった。試しに近世の軍記を見てみよう。『甲越軍記』『管窺武鑑』が天文11年(1542)に越中で討ち死にしたと記しており、『越国内輪弓箭』または『上杉将士書上』や『上杉三代日記』などの宇佐美系軍記は天文7年(1538)に同地で戦死したと記している。ほかの文献では天文5年(1536)に死去したとするものが多く、NHKの大河ドラマ『風林火山』(2007)でも天文5年死亡説を採っていた。

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清和源氏でも平氏に取り入った佐竹氏、頼朝に敗れる [3)日本の歴史]

清和源氏でも平氏に取り入った佐竹氏、頼朝に敗れる

鎌倉殿への道(16)11月5日 頼朝、佐竹氏を屈服させる
2021.11.5(金)西股 総生
鎌倉の源氏山公園に建つ頼朝像 撮影/西股 総生(以下同)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

鎌倉殿への道(15)10月21日、頼朝と義経、感動の対面
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67345

清和源氏でも地方豪族の道を選んだ佐竹氏

 富士川の合戦で平家軍を「撃退」した頼朝は、宿老たちの進言をいれて常陸へと転進した。佐竹氏を討つためである。佐竹氏は、もともとは頼朝と同じ清和源氏の一族である。

 清和天皇を祖とする清和源氏のうち、頼朝の家系である河内源氏や、頼政の摂津源氏は、畿内を本拠地とし、京で治安警察業務を担当する中下級貴族となった家である。こうした家を「都の武者」とか「軍事貴族」と呼ぶ。

 これに対し、地方豪族として土着するというコースを選んだのが、佐竹氏や上野の新田氏、下野の足利氏、甲斐源氏や信濃源氏の一族である。したがって、同じ源の姓を名乗ってはいても、別に同族として一致団結するわけではない。むしろ、独立した家として、それぞれが勢力を築く意識の方が強い。

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謙信の父・長尾為景の不明だった生年が判明、そこからわかること [3)日本の歴史]

謙信の父・長尾為景の不明だった生年が判明、そこからわかること

越後の梟雄・長尾為景の野望(前編)
2021.11.1(月)乃至 政彦
春日山城跡(新潟県) 写真/アフロ

(乃至 政彦:歴史家)

越後の梟雄・長尾為景

 越後守護代・長尾為景は、上杉謙信の父であり、上杉景勝の外祖父である。その為景は“梟雄”として知られる。近年の小説やゲームでもほぼ例外なく、大いなる野心家として描かれている。

 この評価を否定する人はほとんどいない。

 実際問題として、主人格の越後守護と関東管領の2人を殺害し、しかも自ら擁立した新しい守護までも骨抜きにして傀儡化した事績がある。

 もし為景本人が現代の評価を知ったとして、わざわざ反論したりはしないだろう。

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