「サクラ」と「1964」 9月2日
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【産経抄】「サクラ」と「1964」 9月2日
メキシコ五輪を目前に控え、強化合宿の真っ最中だった。1968年8月、ソ連軍の戦車が突如、当時のチェコスロバキアに侵攻する。4年前の東京五輪の女子体操で、3つの金メダルを獲得したベラ・チャスラフスカさんに危険が迫っていた。
▼民主化運動「プラハの春」を支持する「二千語宣言」に署名していたからだ。人けのない山に逃げ、枯れ木を練習台にするしかなかった。それでもメキシコに乗り込むと、ソ連のライバル選手を破って、再び栄冠を勝ち取る。
▼凱旋(がいせん)帰国したチャスラフスカさんに、当局は二千語宣言の撤回を執拗(しつよう)に迫った。断固として拒否すると、一切の仕事を奪われ、生活は困窮を極めた。「ビロード革命」で復権し政府の要職を務めたチャスラフスカさんに、新たな試練が襲う。息子が元夫を死なせる事件をきっかけに、心を閉ざす日々が14年間も続いた。
▼ようやく元気を取り戻したチャスラフスカさんは、作家の長田渚左(おさだなぎさ)さんにこう語っている。「日本はあの悲惨な大戦から19年後、東京五輪を立派に開催して、自分たちの底力を世界に見せつけました」「日本人の生き方が、人生に大きな力を与えてくれた」。
▼長田さんによると、その人生には東京五輪で男子体操の個人総合を制した故遠藤幸雄さんをはじめ、多くの日本人が深く関わっている(『桜色の魂』集英社)。チャスラフスカさんにとって日本は、「第二の祖国」だった。東日本大震災が発生すると、被災地を訪れ、子供たちをチェコへ招く旅行を企画して実現させた。
▼4年後にはこちらから、ぜひ東京に招待したかった。昨日訃報が届いた「五輪の名花」のメールアドレスには、「サクラ」と「1964」の文字が使われていたという。
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