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(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
◉鎌倉殿への道(11)9月17日、頼朝、奇跡のV字回復
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66899)
◉鎌倉殿への道(12)9月19日、頼朝軍、一気にふくれあがる
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66900)
◉鎌倉殿への道(13)10月7日、頼朝、鎌倉に入る
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67220)
平家、ようやく動き出す
都の平家とて、武門の家である。関東の叛乱を、指をくわえてながめていたわけでは決してない。大庭景親から石橋山合戦の第一報が届いた9月2日には、清盛はただちに討伐軍を派遣するよう、命じた。ところが・・・。
占ってみたら何日は日取りが悪い、何日は誰それの命日だという話が出て、出陣の日取りがなかなか決まらない。今でいうなら、結婚式や会社の重要な行事の日は仏滅を避けるようなものだが、とりわけ合戦の場では、人智を越えた偶然がしばしば決定的に作用するから、験担ぎは大切ではある。
とはいえ、このときの平家軍は明らかにモタモタしていた。平維盛(これもり)、忠度(ただのり)の率いる討伐軍が出発したのは、9月29日になってからなのである。
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