鎌倉の源氏山公園に建つ頼朝像 撮影/西股 総生(以下同)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

鎌倉殿への道(9)8月28日、逃亡をつづけていた頼朝の運命は
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66553
鎌倉殿への道(10)9月7日、頼朝の再起と木曽義仲の挙兵
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66772
鎌倉殿への道(11)9月17日、頼朝、奇跡のV字回復
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66899
鎌倉殿への道(12)9月19日、頼朝軍、一気にふくれあがる
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66900

雪だるま式にふくれ上がった頼朝軍

 治承4年(1180)10月。千葉常胤と上総介広常の参陣によって、一気に大軍を率いることになった頼朝は、武蔵をへて鎌倉を目指していた。房総三か国の内で、常胤や広常と対立していた者は、平家方勢力として容赦なく討伐された。

 この頃には、石橋山の合戦で逃げ散った者たちの多くも、再び頼朝のもとに集まってきた。頼朝の異母弟で醍醐寺の僧となっていた全成(ぜんじょう)も、京を脱して駆けつけてくれた。全成は幼名を今若といい牛若、つまり義経の同母の兄にあたる。

 ところで、現在の利根川は関東平野を南東に流れ下り、千葉県と茨城県の境を東に流れて、銚子の北で太平洋に注いでいる。しかしこの流路は、江戸時代に付け替えられたもので、中世の利根川は関東平野を真南に流れ下って、武蔵と下総の境をなして江戸湾に注ぎ込んでいた。この下流域を、当時は大井川とか太日(おおい)川と呼んでいた。

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