【産経抄】5月23日
若き日に良き師に出会えるかどうかで、人生は大きく変わる。幕末に勤王の志士として活躍した山田市之允(いちのじょう)は、その意味で幸せだった。わずか1年間ながら、松下村塾で吉田松陰の薫陶を受けられたからだ。
▼明治維新後は、山田顕義(あきよし)として、近代法の制定に全力を尽くした。明治22年には日本法律学校、現在の日本大学を設立する。実は松陰には処刑される直前まで、大学校をつくるという宿願があった。作家の古川薫さんによれば、弟子の顕義にとって日大は、まさに「松陰の大学」だった(『剣と法典』)。
▼その日大の誇るアメリカンフットボール部をめぐる騒動は、一向に収まる気配を見せない。今月6日の関西学院大学との試合で、日大選手による悪質な反則行為は、果たして監督の指示によるものだったのか。昨日行われた日大選手の会見でようやく事実がはっきりした。
▼「相手をつぶしてこい」。内田正人前監督とコーチから指示があった、と選手は明言した。どうやら日頃から、どんな理不尽な要求が出されても、選手が意見を言えるような関係ではなかったようだ。
▼「立志尚特異(りっしはとくいをとうとぶ)」(志を立てるにおいては人と異なることを恐れるな)。松陰は市之允に、人として生きる道を記した扇子を残した。ケガを負わせた関学選手に謝罪をすませた日大選手は、もうアメフットを続けるつもりはないという。ではこれからの長い人生、何を指針にすればいいのか。
▼内田氏は、「すべて私の責任」と謝罪して監督を辞任したものの、指示の有無については、あいまいにしてきた。関学大に提出した文書には、選手が勝手にやったと受け取れる表現さえある。選手にとってかつての師は、反面教師の役割しか果たせそうにない。
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