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【戦後71年 楠木正成考<第1部>】多聞誕生(3)「公」を忘れた日本人へ 信貴山、心と戦略の拠り所 [◉日本流を考える]

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2016.5.1 15:00

【戦後71年 楠木正成考<第1部>】多聞誕生(3)「公」を忘れた日本人へ 信貴山、心と戦略の拠り所

信貴山朝護孫子寺所蔵の兜。正成が奉納したと伝わる=奈良県平群町(恵守乾撮影)

 〈これは彼が母若かりし時、志貴(しき)の毘沙門(びしゃもん)に百日参詣して、ある夜錦帳(きんちょう)の内より、玉を給(たま)ふと夢に見て儲(もう)けたる子にて、童名をば多聞(たもん)とは付けて候(そうろ)ふなり〉

 楠木正成の誕生について、太平記はそんな伝承を記す。「志貴」は河内(大阪府)と大和(奈良県)のほぼ境に位置する信貴山(標高437メートル)の朝護孫(ちょうごそん)子寺(しじ)(同県平群町)である。寺の本尊、毘沙門天は聖徳太子が物部守屋(もののべのもりや)を討伐するため、この山で戦勝祈願すると、寅年の寅日、寅の刻に現れ、願いを成就させたという言い伝えが残る。

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