これでいいのか?戦後日本「より良き日本を取り戻そう」

日本企業が「議論」を封殺する本当の理由






 議論や異議申し立てなく、上位者の意思・指示命令に従う代わりに、組織から守られ、定年までの雇用やキャリアが保障される。日本人サラリーマンの基本的な立場である。権威への服従・忖度は、「深く考えること」を排除する(参照:ゴーン被告報酬にサイン、日産・西川社長はなぜ「深く考えなかった」のか?)。「深く考えること」が排除されたところ、「議論」も問題視される。あらゆる前提を排除するゼロベース思考は、「もう1人の自分」から自己否定・現状否定される結果をもたらし得るため、事柄によってはタブーとなる。



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 今回は、その「議論」をめぐって考察したい。


「議論」のタブー化


「深く考える」ことと「議論」は双子である。深く考えても、議論しなければ、企業経営には何ら意味もなさない。


「納得できない」「合点がいかない」「腑に落ちない」……。日本語の表現は実に多様である。英語の「disagree」は、「私はあなたの意見に同意しない、反対する」という「主体の客体に対する指向性」が非常に明確である。これに対して、日本語の表現はいずれも、客体指向がなく、自分の中で完結する「自己完結型」になっている。いくら納得できなくても、合点がいかなくても、腑に落ちなくても、それはあくまで自分の中の葛藤であり、相手の意思や行動に反対や阻止の意思を直接にぶつけるものではない。しかも、このような間接的な反対すら相手に表明しない(できない)のが日本人である。負の意思や感情を自分の中に抱え込む。