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頼朝の強い味方、もうひとりの「義経」と平家軍の攻防


頼朝の強い味方、もうひとりの「義経」と平家軍の攻防


鎌倉殿への道(18)12月1日、平家軍を悩ませたもうひとりの義経とは


2021.12.1(水)西股 総生




鶴岡八幡宮 撮影/西股 総生




(城郭・戦国史研究家:西股 総生)


鎌倉殿への道(15)10月21日、頼朝と義経、感動の対面
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67345
鎌倉殿への道(16)11月5日 頼朝、佐竹氏を屈服させる
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67576
鎌倉殿への道(17)11月17日、頼朝、鎌倉に帰陣する
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67675



頼朝軍が勢力を伸ばしていた頃、平家は?


 治承4年(1180)10月から11月にかけて、頼朝が富士川の合戦で平家軍を「撃退」し、常陸に佐竹氏を攻めている頃のこと。信濃で挙兵した木曽義仲は北へ勢力を広げ、さらに上野に進んで、地元の武士たちを支配下におさめようとしていた。


 11月末の時点で、南関東一円と常陸・下野の大半は頼朝の実効支配下にあった。信濃と上野の過半は木曽義仲の勢力下にあったし、甲斐と駿河は甲斐源氏一党が押さえていた。これらの地域は、朝廷の支配下から離脱していたのである。


 そればかりか、尾張・美濃・近江でも反平家方の武士たちが蜂起して、都の平家は対応に追われていた。中でも厄介だったのが、近江の山本義経である。


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