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富士川の合戦に負けた平家軍に足りなかったものとは?


富士川の合戦に負けた平家軍に足りなかったものとは?


鎌倉殿への道(14)10月20日、富士川の合戦


2021.10.20(水)西股 総生




厳島神社の平清盛像 写真/アフロ




(城郭・戦国史研究家:西股 総生)


鎌倉殿への道(11)9月17日、頼朝、奇跡のV字回復
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66899
鎌倉殿への道(12)9月19日、頼朝軍、一気にふくれあがる
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/66900
鎌倉殿への道(13)10月7日、頼朝、鎌倉に入る 
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/67220



平家、ようやく動き出す


 都の平家とて、武門の家である。関東の叛乱を、指をくわえてながめていたわけでは決してない。大庭景親から石橋山合戦の第一報が届いた9月2日には、清盛はただちに討伐軍を派遣するよう、命じた。ところが・・・。


 占ってみたら何日は日取りが悪い、何日は誰それの命日だという話が出て、出陣の日取りがなかなか決まらない。今でいうなら、結婚式や会社の重要な行事の日は仏滅を避けるようなものだが、とりわけ合戦の場では、人智を越えた偶然がしばしば決定的に作用するから、験担ぎは大切ではある。


 とはいえ、このときの平家軍は明らかにモタモタしていた。平維盛(これもり)、忠度(ただのり)の率いる討伐軍が出発したのは、9月29日になってからなのである。


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