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上杉景虎が「御館の乱」で勝利しても北条の傀儡にならなかった?


上杉景虎が「御館の乱」で勝利しても北条の傀儡にならなかった?


「御館の乱」における上杉景虎の戦略(後編)


2021.5.28(金)乃至 政彦







鮫ヶ尾城の上杉景虎像





(乃至 政彦:歴史家)


「御館の乱」における上杉景虎の戦略(後編)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65399



御館の乱勃発する


 天正6年(1578)3月13日、上杉謙信が亡くなった。その約2ヶ月後、後継者となった初心者マークの上杉景勝に、最初の試練が訪れる。難易度はそれほど高くない。会津の蘆名止々斎が軽く侵攻を企てただけのことだ。だが、景勝は適切に即応しようとした三条城主・神余親綱を厳しく叱責してしまう。初っ端からのファンブルだった。


 怒りに震える親綱は、栃尾城主・本庄秀綱、そして御館城主・上杉憲政と一緒に、反乱を決行した。5月5日、「大場」の地にて、上杉景勝の拠点・春日山城の軍勢と、反乱軍の拠点である御館城の軍勢が激突する。これには辛うじて景勝が勝利した。だがその先の御館城は謙信時代から堅固に作られており、その義父だった憲政がいるので、さすがに景勝もこれ以上攻められずにいたようだ。


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