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明治の反知性主義が見た中国
100年前に予見された「北京外交」における日本の敗北
2019/08/31
樋泉克夫 (愛知県立大学名誉教授)
「今や北京は殆(ほと)んど世界外交の中心であるかの観がある。少なくとも日本外交の中心点は北京である。若(も)しわが日本が、北京外交の舞台に於(おい)て敗を取ることがあるならば、大日本の理想は遂に一個の空想に過ぎない」と、なにやら21世紀初頭の現在を連想させそうな“大志”を抱き、高瀬敏德は中国に向かう。
1902(明治35)年の8月28日、「男児の意気常に豪壮なるものあらん」と高瀬丸で神戸港の岸壁を離れる。あと日露戦争は2年後に迫っていた。
20世紀の世界が解決すべき最大の問題が「所謂支那問題なるもの」と考える高瀬は、「今や世界は清国を公開して、世界の大市場となさんとしてゐる」と現状を把握した後、対外開放以後の清国に対する列強の対応ぶりを説く。