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なぜ信長は鉄砲隊を千挺しか配置しなかったのか [3)日本の歴史]

なぜ信長は鉄砲隊を千挺しか配置しなかったのか

長篠合戦の真実・中編
2020.10.21(水)西股 総生
長篠城跡(愛知県新城市)。豊川と宇連川の合流点に位置し、北方に塀と土塁を置いた堅固な造りが特徴。長篠合戦では城主の奥平貞昌が武田勝頼の包囲に耐えた。

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

家康に泣きつかれた信長

前回より)のっぴきならない状況に追い込まれた徳川家康は、格上の同盟者である織田信長に泣きつくしかなかった。その信長は、数年前から上方での戦いに忙殺されていたのだが、長篠城が囲まれていた頃、ちょうど上方での戦いが一段落して、兵を休ませていた。

 家康からのSOSを受けた信長は、織田軍主力を一気に長篠に投入することを決心し、約3万の織田軍を率いて三河に向かった。美濃方面でも武田軍が陽動作戦を行っていたが、構わなかった。そして、家康と合流すると長篠城の6キロほど手前で停止して、武田側から見えないように織田軍主力を注意深く配置した。

『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(Wikipediaより)

 対する武田勝頼は、織田軍の進出はキャッチしたものの、その兵力と信長の真意を計りかねていた。これまでのいきさつから見て、信長が本気で家康を助けることはないだろう。織田軍の兵力が多少大きくても、戦意が低いのなら、織田軍がモタモタしている間に徳川軍を叩いてしまえる。そう踏んだ勝頼は、会戦を決心した。

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長篠合戦の主役は織田軍の鉄砲隊ではなかった? [3)日本の歴史]

長篠合戦の主役は織田軍の鉄砲隊ではなかった?

長篠合戦の真実・前編
2020.10.20(火)西股 総生
『長篠合戦図屏風』(部分)(Wikipediaより)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

歴史家が見落としている重要な論点

 長篠の合戦といえば、たいがいの人は、織田信長が強力な鉄砲隊によって武田勝頼を破った戦い、というイメージをもっているだろう。この合戦は1575年(天正3)の5月、武田勝頼が三河に攻め入って、徳川方の奥平信昌という武将が籠もる長篠城を囲んだことから起きた。長篠城を救援に向かった織田信長・徳川家康の連合軍と、武田軍とが決戦に至ったわけである。

 これまでも多くの歴史家たちが、さまざまに論じてきた長篠合戦であるが、実は決定的に重要な論点がひとつ、見逃されている。織田軍の鉄砲隊は、そもそも長篠の戦場において主役ではなった、という事実だ。これは、どういうことなのか。まずは戦いのいきさつから、順を追って説明しよう。

 勝頼が武田家の当主となる以前、つまり信玄の存命中から、武田と徳川とは交戦状態にあった。とはいえ、実力では武田軍の方が圧倒的に優勢で、奥平氏ら奥三河の国衆は、武田方につくことで生き延びをはかっていた。

 一方、徳川家康には織田信長という同盟者がいたが、京を押さえて勢力急伸中の信長は、決して対等な同盟相手とはいえなかった。家康の立場は、協力会社といいつつ実態は文句のいえない下請け会社のようなものだった。早い話、武田軍という強敵に対する体のいい防波堤として、信長に利用されていたのである。

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