駿府城(静岡県)に立つ徳川家康像。東海地方を領していた家康は、秀吉の命により関東へと転封されるが、関ヶ原合戦で勝利したのち駿府城を築き直し、ここを拠点に豊臣氏を滅ぼすことになる。撮影/西股 総生

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

大名の転勤は大忙し

 われわれ現代人は、大名の転封を、つい自分たちの転勤と同じように考えがちだ。豊臣秀吉から転封を命じられた徳川家康は、いったん国元へ帰り「やれやれ、関東に国替えだ」などとボヤきながら、家臣や家族と引っ越しの相談をして・・・、という情景をイメージしてしまう。

 しかし、大名の異動は、そのような悠長なものではなかった。家康の場合、秀吉から関東への転封を命じられたなら、そのまま軍勢を率いて江戸城に入るのである。もちろん、気の利いた家臣を国元につかわして、引っ越しの段取りはさせなければならないが、われわれの転勤とはずいぶん様子が違う。

江戸城本丸の石垣と堀。戦国時代には土造りだった江戸城を、家康は少しずつ本格的な石垣造りの城へと築き直し、大都市東京の基礎を作り上げた。撮影/西股 総生

 なぜかというと、北条氏を攻め滅ぼす戦争が、豊臣政権による全国征服事業として行われているからだ。そうした中で、家康は、北条氏に領地を接している者として、先陣を切って戦うこと立場にあったのだ。そうである以上、関東転封は討滅した北条領の占領であり、江戸城に入るのは敵基地への進駐なのである。

 北条氏の領地は広大であるし、その先の奥羽は未だ不安定であるから、関東の占領統治は力量のある者でなければ任せられない。家康が関東に入るのは、きわめて当然の流れだったことがわかる。

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