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豊臣秀吉が徳川家康を関東に移したのは左遷なのか? [3)日本の歴史]

豊臣秀吉が徳川家康を関東に移したのは左遷なのか?

大名の地方転封は左遷か?(前編)
2020.9.24(木)西股 総生

江戸城の本丸に残る家康時代の石垣。戦国時代の江戸城は土造りだったが、家康はこの城を本格的な石垣造りの城に築き直していった。撮影/西股 総生(以下クレジットのないものは同)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

遠隔地に移された有力武将たち

 1590年(天正18)、小田原の北条氏を滅ぼした豊臣秀吉は、徳川家康を関東に封じた。徳川氏の本領は三河だったが、長年にわたる家康の努力によって、この頃には遠江・駿河・甲斐と領地を広げていた。したがって、秀吉は家康と家臣たちに、慣れ親しんだ土地を離れて、遠い国に〝転勤〟するよう命じたことになる。

石垣山城から見た相模湾。豊臣秀吉が小田原攻めの本営として築いたのが石垣山城。秀吉は、このような景色を眺めながら、家康に関東への国替えを命じたのだろう。

 もともと、秀吉は織田信長の家臣、家康は信長の同盟者(格下の)だった。信長の横死後に両者は対立し、1584年(天正12)の小牧・長久手合戦で干戈を交えたものの、結局は家康が政治的に屈する形となった。家康の関東転封は、その6年後であるため、秀吉が家康を遠ざけた、と考える人が多い。

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タグ:徳川家康
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上杉謙信の人狩りと乱取りは本当にあったのか [3)日本の歴史]

上杉謙信の人狩りと乱取りは本当にあったのか

謙信越山:第26回「人間・上杉謙信①」
2020.9.24(木)乃至 政彦


春日山城(新潟県)の上杉謙信像

(乃至 政彦:歴史家)

義の武将と言われる上杉謙信だが、今回の連載の主体である関東への出陣について「雑兵たちを食わせるため、人狩り(誘拐)や乱取り(略奪)を常習する出稼ぎだった」という衝撃的な異説がある。義将か凶将か。その前に生身の人間として観察することにする。(JBpress)

上杉謙信と人狩り

 義の武将と言われる上杉謙信について、「関東への出陣は、雑兵たちを食わせるため、人狩り(誘拐)や乱取り(略奪)を常習する出稼ぎだった」という衝撃的な異説がある。

 今回はこの異説を、掘り下げてみたい。ただし、義将か凶将かという二択の問題にすると答えが偏るので、そうではなく生身の人間として観察することにしよう。

 まず人狩りについてである。

 この説の謙信は、関東で奴隷狩りを繰り返し、そこで人市を開かせて、荒稼ぎしていたことになっている。義戦とされる越山は、そのための方便だったと言うのである。

 これには、東国の奴隷売買にそれほど大きな市場があったのかという疑問に始まり、人市という史料に依らない造語など、無数の問題があるものの、なぜか無批判に信じられている。

 この説の根拠とされている史料を取り上げよう。

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タグ:上杉謙信
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