岡崎市若宮八幡宮の信康首塚(著者撮影)

 戦後時代、織田信長とともにその地盤を築き、のちに泰平の世を作り上げた徳川家康。しかし、その過程には自らの妻子を亡くすなどの波乱がある。

 妻・筑山殿、子・信康。果たしてふたりの「死の真相」とは。織田信長の命か、それとも・・・。戦国時代の謎と真実に迫る。

実母の築山殿は今川氏にゆかり

 徳川信康は、永禄2年(1559)、徳川家康の長男として駿府、すなわち駿河府中、現在の静岡市で誕生した。母は、駿河の戦国大名・今川義元の姻族関口氏の出身である。8歳で今川氏の人質となって駿府に送られていた家康は、そのまま家臣として位置づけられ、関口氏から正室を迎えていたのだった。義元としては、家康を今川氏の一門に組み込もうとしていたのであろう。そのまま、今川氏の栄華が続けば、家康は今川氏の重臣として活躍していたかもしれない。

 しかし、信康が生まれた翌年の永禄3年(1560)、桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれてしまう。すでに義元は、家督を子の氏真に譲っており、義元が討たれたからといって今川氏がただちに滅亡する状況になったわけではない。しかし、「海道一の弓取り」と謳われた義元の死は、各所に動揺を与えることになったのである。

 今川義元が敗死したあと、家康も、究極の選択をせまられることになった。

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