源頼家像

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

「タネをまくのも務めのうち」だったが・・・

 急死した頼朝の後を継いで鎌倉殿となった、若き頼家。鎌倉幕府の正史として編まれた『吾妻鏡』を読むかぎり、頼家は政務に積極的な姿勢を見せていますし、各種の行事も怠ることなく、文化事業などにも力を入れていた様子がうかがえます。

 でも、残念ながら頼家の意欲は空回りしがちで、多くの御家人たちの信頼を勝ち取ることができませんでした。背景にはもちろん、ドラマでも描かれているような、北条氏と比企氏との権力争いがありました。ただ、それだけではなさそうです。頼家は、どこで間違ったのでしょうか? 

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