『長篠合戦図屏風』(部分)(Wikipediaより)

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

歴史家が見落としている重要な論点

 長篠の合戦といえば、たいがいの人は、織田信長が強力な鉄砲隊によって武田勝頼を破った戦い、というイメージをもっているだろう。この合戦は1575年(天正3)の5月、武田勝頼が三河に攻め入って、徳川方の奥平信昌という武将が籠もる長篠城を囲んだことから起きた。長篠城を救援に向かった織田信長・徳川家康の連合軍と、武田軍とが決戦に至ったわけである。

 これまでも多くの歴史家たちが、さまざまに論じてきた長篠合戦であるが、実は決定的に重要な論点がひとつ、見逃されている。織田軍の鉄砲隊は、そもそも長篠の戦場において主役ではなった、という事実だ。これは、どういうことなのか。まずは戦いのいきさつから、順を追って説明しよう。

 勝頼が武田家の当主となる以前、つまり信玄の存命中から、武田と徳川とは交戦状態にあった。とはいえ、実力では武田軍の方が圧倒的に優勢で、奥平氏ら奥三河の国衆は、武田方につくことで生き延びをはかっていた。

 一方、徳川家康には織田信長という同盟者がいたが、京を押さえて勢力急伸中の信長は、決して対等な同盟相手とはいえなかった。家康の立場は、協力会社といいつつ実態は文句のいえない下請け会社のようなものだった。早い話、武田軍という強敵に対する体のいい防波堤として、信長に利用されていたのである。

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