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日露戦争の翌年、朝鮮半島、満州に修学旅行にでかけた高校生たち [3)日本の歴史]

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 明治39(1906)年7月19日午後4時、広島高等師範学校を中心に東京帝国大学、第一、二高等学校、学習院、大阪高等商業学校、同高等医学校などの学生を加えた総勢600人余は、広島県宇品港から小雛丸に乗り込み、朝鮮半島・満州方面への修学旅行に旅立った。

 門司を経て船が外海に出るや、「日本海の大勝を祝し兼ねて乗組員一同の健康を祝す為めに」、船体を一回転させた後、全員が甲板に出て校長の音頭で「万歳を三唱し又『君が代』を二回合唱」したという。

日露戦争の旅順攻略作戦の司令官、乃木希典陸軍大将(Photos.com/gettyimages)

 いったい明治末年の若者は、日露戦争戦勝後の満洲に何を見たのだろうか。

 7月23日午前3時に大連に上陸した後、有蓋貨車に乗り込み2時間ほどで旅順へ。

 203高地が陥落したのは明治37(1904)年12月5日だから、一行の見学は激戦から1年半ほどしか経っていない。「広瀬中佐が一片の肉塊を残して消えたりし報国丸を始め福井丸其他十二三隻の閉塞船或は船体を表はし或は檣頭を見はし港口に橫は」ったまま。「正しく死者の名残り」を痛感したことだろう。

 次に向かった奉天ではバラック小屋のような兵舎を宿舎にし、「戦時将士の艱苦思ひ遣られたり」。

 

 

 

 


タグ:日露戦争
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